悟りの証明

残日録

悟りの証明(67)

慧能「甚麼の処より来たる。」(何処から来た)

懐譲「崇山より来たる。」(崇山から来ました)

慧能「甚麼物か恁麼に来たる」(一体何がそのように来たのか)

 

懐譲は、慧能のこの問に対し、即答できず、八年間の修行の末に「百尺竿頭進一歩」となり、次のように答えることが出来ました。

 

懐譲「説似一物即不中。」(説いて一物に似たるも即ち中らない)

 

「甚麼物か恁麼に来たる」「恁麼物恁麼来」とは「如として来るものは何か」「如来とは何か」「現実とは何か」「事実(現実の一事)とは何か」ということで、「ありのまま」とは何か、「動的具体的全体」とは何かという問いを意味しています。この問いに対して答えを出すには、言語・概念をもって思惟しなければなりませんが、その結果は、「静的抽象的部分」でしかない「現実に似たるもの」ということになります。思惟すると言うことは、カントがいうように、反省し構成するということを意味しています。思惟は、「動的具体的全体」である「三昧」「純粋経験」「現在意識」「絶対的現在」「いま・ここ」「一次的意識」を振り返り(反省)、それを時間・空間・因果によって構成する意識の「二次的なハタラキ」なのです。従って、肝心な思惟の拠り所、二次的意識の拠り所である現実(動的具体的全体)そのものを把握することが先決問題となり、どうしても「悟り」が必要ということになります。懐譲が「説似一物即不中。」と明言できたと言うことは、とりもなおさず、そこに懐譲の悟りがあったということができます。

 

馬祖「あれは何だ。」

百丈「雁です。」

馬祖「何処に飛んでいくのだ。」

百丈「みんな行ってしまいました」

(馬祖はつぶさに百丈の鼻を捻りあげで)

馬祖「飛び去ってはいないではないか。」

(百丈は痛さに悲鳴を上げながら省悟した)

 

雁が存在するのは「空間」であり、飛んで来た雁が去るのは「時間」であり「因果」です。私たちは、気がついていませんが、このように一瞬にして現実を反省し構成しているのです。しかし、私たちはここで重大な錯覚に陥ることになります。それは百丈自身もこの反省され構成された思惟対象の世界、時間・空間・因果の世界、所謂カントの「現象界」に属しているという錯覚です、意識作用界と思惟対象界の混同です。現実は意識作用界にあり、思惟対象界にはありません。馬祖はこのことを知らせるために、百丈の鼻を捻りあげて意識作用を直指したのです。「雁が飛んでいくのは思惟対象界に於いて」であり、百丈が存在しているのは意識作用界なのです。

 

意識作用が存在するのは、絶対的現在に於いてであり、「いま・ここ」に於いてであり、三昧に於いてであり、純粋経験に於いてであり、現在意識に於いてなのです。意識作用は常に「現在進行形」なのです。

 

私たちは、この宇宙、この自然、この世界の中に住んでいると思い込んでいますが、それこそが誰でもが陥る錯誤なのです。意識作用である私たちは決して意識対象界には存在しません。意識対象界は「物の世界」であり、生命のない「死の世界」なのです。

 

「三昧」「絶対的現在」「いま・ここ」「純粋経験」「現在意識」等はいずれもハタライテイル意識作用そのもの意味しているので、私たちはこれらを思惟の対象にすることは出来ません。従って知識として知ることは出来ません。悟ることの難しさはまさにここにあります。悟りは自らの経験を直覚・直観することによってのみ得られるものです。仏教ではこの直覚・直観を「般若」といいます。

 

ある和尚が弟子たちの目前に拄杖(長めの杖)を示して曰く、

 

「これがわかったら、お前たちの禅修行は終わるのだ。」

 

目前に示されたものをただ単に拄杖と言ってしまったら、懐譲が明言したように「説似一物即不中」ということになってしまいます。拄杖と言うには、先ず、「ありのままの物事」即ち「現実」「事実」を「直観」「直覚」しているはずです。まず最初に「動的具体的全体」すなわち「ありのまま」「現実」を「直観」「直覚」しているからこそ、それを「思惟」によって「反省」して拄杖という「静的抽象的部分」の表現が可能になるのです。以上の理解によって次の「公案」を解くことが出来ます。

 

「鳴らぬ先の鐘の音を聴け」

「隻手の音声を聞け」

「父母未生以前の面目は如何」

 

(つづく)