悟りの証明

残日録

2016-04-01から1ヶ月間の記事一覧

悟りの証明(35)

「山の中にいて山を見る(知る)」とは三昧(一次的意識)において三昧を見る(知る)ということで、「山を離れて山を見る(知る)」とは二次的意識において二次的意識を見る(知る)ということになります。三島由紀夫の絶妙の表現「主体なき客観性」とは、客観界…

悟りの証明(34)

宇宙のハタラキ(力・エネルギー)は人間のハタラキ(生命力・精神力)として降臨(神人同性)するだけではなく、一切の物に降臨(神物同性)し、八百万の神々を現成させ、この宇宙・この世界を「ハタラキの世界」「生命の世界」に転じます。所謂自然は無意味な物…

悟りの証明(33)

「一即多」すなわち宇宙のハタラキ(一)は私たちのハタラキ(多)として降臨してきます。西田幾多郎はこれを「私たちの人生とは宇宙精神を実験することである」と実感を込めて述べています。この宇宙精神とは宇宙のハタラキを意味しています、ハタラカない精神…

悟りの証明(32)

宇宙のハタラキは人間のハタラキ、すなわち神のハタラキは人のハタラキとして「神人同性」というのが神道であり仏教です。嘗て、日本人であれば生きとし生けるものにはすべて神が宿ると無意識に意識するのが普通でしたが、欧米思想のコピペを専業とする知識人…

悟りの証明(31)

仏教の教説は悟りを得ずして理解することは出来ません。悟りは三昧・一次的意識において般若・直覚・直観によって自覚されるハタラキです。三昧は主客未分の意識状態で、意識の内容(未だ意識対象にはなっていない)のみが現前している状態で、意識作用が意…

悟りの証明(30)

悟りの証明(29)

我と無我、いずれが「本当の我」・「真我」でしょうか? 答えはいずれでもありません。上来述べてきたように、我とは「ハタラキ」のことです。誤解してはいけないのは、我がハタラキを持っていて、我がそのハタラキを使うのではありません、「ハタラキが我」な…

悟りの証明(28)

「悟る」ことを「見性」と言いますが、「見性」の「見」は、広義では「知る」ということですが、ここでは「直覚・直観・般若によって知る」という意味です。「性」は私たち人間の「本性」すなわち「仏性」を意味しています。従って、「見性」とは「私たち人間の本性で…