悟りの証明

残日録

悟りの照明(135)

人は年齢とともに、人それぞれに、意識的に無意識的に「死生観」を抱くようになります。

私たちは死すべき存在として、死から逃れることが出来ません。私たち人間の最大最深の悩みは「いずれは死ななくてはならない」ということです。仏教の最大の使命は「人間の死からの開放」でした。

 

諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」 『涅槃経』

 

(諸行=すべてのものごとは無常である。生じては滅びるものであり、生じては滅びる、それらの静まることが安楽である。)

 

「それらが静まるところが安楽である」とは「生滅が静まるところ」ということで、生とか死が静まるところ、生とか死がなくなるところ、すなわち「不生不滅」が安楽である。

因みに、「不生禅」で知られる盤珪禅師は、「不生不滅」のことを、生じないものが滅するわけがないので「不滅」は蛇足であり、「不生」だけで十分と説いています。

 

しかし、一般には、「不生」すなわちう私たちは生まれもしないし死にもしないとは、到底考えられないことであり、納得できるものでもありません。何故このような馬鹿げたことが言えるのでしょうか。

 

生死すなわち命を考えることは、時間を考えることです。時間は連続しているものですが、私たちは「連続」そのものを知ることが出来ません。「連続」に生や死といった言葉によって刻みを入れて(切断して)、連続を「非連続」にして、「非連続の立場」に立って、「連続を推理・想像」しているのです。

 

『莊子』に次のような話があります。

 

南海の帝をpastedGraphic.png(しゅく)といい、北海の帝を忽(こつ)といい、中央の帝を渾沌(こんとん)といった。pastedGraphic.pngと忽とはときどき渾沌の土地で出会ったが、 渾沌はとても手厚く彼らをもてなした。pastedGraphic.pngと忽とはその渾沌の恩に報いようと相談し、 『人間にはだれにも(目と耳と鼻と口との)七つの穴があって、 それで見たり聞いたり食べたり息をしたりしているが、 この渾沌だけはそれがない。ためしにその穴をあけてあげよう』ということになった。そこで一日に一つずつ穴をあけていったが、七日たつと渾沌は死んでしまった。

                            岩波書店  金谷治

 

「混沌」とは天地がまだ開けず不分明である状態、すなわち分別できない「無分別」と考えられます。従って、混沌=無分別=連続=一=空等、これらは全く同一の意味になります。私たちはこの分別できない「連続の時間」を分別するために生とか死とかの「言葉」で刻みを入れ、連続を「非連続」にしますが、こうすることで「連続」は消失してしまいます。ノッペラボウの混沌に目・口・鼻・耳等の刻みを入れることで混沌は死んでしまうのです。この混沌の話は、私たち人間が、「混沌」「生ける自然」「ピュシス」を言葉によって切り刻んで人為的な「物の秩序」「ノモス」「人間世界」を構築する代わりに「生ける自然」を失うということを示唆しています。私たちが生まれた時にはすでに言葉は存在しているのでこの事実は理解するのが困難ですが、次のヘレン・ケラーの話はこの事実を裏付けています。

 

ヘレン・ケラーが水を体験して、「それは水である」という言葉を与えられた時、自分と水を対立させて、知る私と知られる水、主観が客観という構図の「相対知」を得たのです。今まで連続していた「一なる世界(主客未分の世界)」を、「自分と水」、ひいては「自分と世界」に真っ二つに分離し非連続にしたのです。ヘレンは「水」という言葉によって、連続(生ける自然)の世界の住人であった彼女から、非連続の世界の住人になり、今までの連続の世界を失った代わりに非連続の人為的な物質の世界、すなわち、いわゆる私たちの世界を得たのです。

 

時間にはアナログの時間とデジタルの時間があります。アナログの時間は「連続の時間」

であり、デジタルの時間は「非連続の時間」です。デジタルの時間はリアル(自然)なアナログの時間に刻みを入れて、私たちが「人為的」に創ったバーチャルな時間です。私たちは連続というリアルな時間を直接に知ることが出来ないので、連続を非連続にしてから連続を意識(推理・想像)しているんです。

 

真の命は連続です、リアルな命は連続です。連続は無始無終で、永遠です。私たちはこの連続の命に生とか死という言葉によって刻みを入れて、非連続にしておいて、命を思惟の対象、すなわち「考えられるもの」にしているのです。連続は無分別で考えられないものです。考えられるものは分別で無分別ではありません。

 

生や死がある命はリアルな命ではありません、リアルな命は連続であり、生も死もない「不生」の命なのです。

 

仏教とは連続=無分別=一=絶対無=空を説く宗教です。仏教は無分別を説くことでバーチャルな世界の住人である私たちをリアルな世界、「生ける自然」の世界に導く宗教です。

 

「善人なほもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」

 

この親鸞の「悪人正機説」はまさに無分別そのものであり、ずばり無分別を提示し、無分別を説いているのです。

 

仏教は無分別=連続を説くことによって、連続の存在を知らしめ、「相対知」では知ることが出来ない連続を、悟りを得ることによって得られる相対知とは異次元の知である「絶対知」「般若」「自己同一知」「自覚」「自知」「無分別智」をもって知り、リアルな連続の世界(生ける自然)に導き、現に、生や死のない永遠の命を生きている現実を知らしめ、私たちを生死の呪縛から開放します。(絶対知=自覚については「悟りの照明(74)を参照)