悟りの証明

残日録

2015-01-01から1年間の記事一覧

悟りの証明(27)

仏教ではこの宇宙の原理をハタラキ(動き、活動、力、エネルギー等)と見なし(「諸行無常」)、このハタラキはあらゆるものに遍在し、私たち人間においては意識のハタラキすなわち意識作用として顕現します。この事実は、私たちの普段の意識(二次的意識)…

悟りの証明(26)

「仏教」は窮極の自己実現である「悟り」を目的とする宗教哲学です。悟りは「経験を超えた特殊な体験」です。悟りは、理論理性の追求の果に、突破できないアポリアの状態に彷徨していて、「何ものか」を契機に「ふと」アポリアを突破する体験です。悟りは、…

悟りの証明(25)

我と非我は対立するものではありません。我は我、非我は非我でありながら、そこには対立はないのです。我と非我の関係は、我=自と置き換え、非我=他と置き換えてみると、「自即他・他即自」ということになります。「即」には「転じる」「回互する」という…

悟りの証明(24)

所謂リベラルという人種は、欧米に対する劣等感と憧憬を持ち、日本を学ぶことなく、欧米思想を未消化のまま輸入し、「コピペ思想」を吹聴する特殊な「主知主義者」です。朝日新聞は「日本を相対化する」等と傲慢な主張をしていますが、日本(江戸時代以前)…

悟りの証明(23)

私たちは「三昧」という意識の状態から離れることは出来ません。私たちは、実のところ、終日、三昧を生きています。三昧には座禅のように数十分の純粋で深いものから一瞬のものまで、意識の深浅があり、時間的な長短があります。 「三昧」には必ず「人格移入…

悟りの証明(22)

私たちが、一般に、現実の世界と思い込んでいる世界は、既に知(思惟)によって構成された静的・抽象的・部分的世界、物の世界、「存在・ザイン」の世界です。私たちが現実と思い込んでいる世界は、主観の裏付けのない抽象的な客観が浮遊し充満した、「知の…

悟りの証明(21)

カントは、道徳とは「汝〜すべし」という「定言命法」に従うことだといいましたが、一体、この「定言命法(絶対命令)」なるものが何処から出てくるのでしょうか、「彼方からの声」や「良心の声」といったところで、何の答えにもなっていません。 仏教におけ…

悟りの証明(20)

「この世」の一般的な道徳と仏教の倫理とは根本的に相違しています。 親鸞の「悪人正機説」によれば、「善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」ということになっています。「善人さえも往生出来るのだから、悪人が往生出来ない筈はない」とは逆説にも解…

悟りの証明(19)

上述のように、仏教(悟り)を明らかにする為には、何よりも「三昧」を明確にしなければなりません。その為には、仏道修行の最終段階である「定」と「慧」を明らかにしなければなりません。 先にも述べたように、「定」とは心の最も安定した統一状態であり、…

悟りの証明(18)

覚者の立場 ▼ 梵・・・・・梵我一如・・・・・我 神・・・・・・仏・・・・・・・人 宇宙の原理である「ハタラキ」すなわち神が私たちの「ハタラキ」である「仏」と「神人同性」であるというのが「梵我一如」ということになります。この「ハタラキ」がどのよ…

悟りの証明(17)

仏教では、三昧のことを「定」あるいは「正定」ともいいます。仏道修行とは三学(戒・定・慧)、あるいは六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧=般若)を修することですが、修行の核心は定=正定=禅定と慧=智慧=般若にあり、定と慧は一等(定慧…

悟りの証明(16)

覚者の立場 ▼ 無我・・・・・ハタラキ 無我・・・・・無我即我・・・・・我 一・・・・・・一即多・・・・・・多 梵・・・・・・梵我一如・・・・・我 仏教を理解するためのポイント、悟りを得るための要諦は「意識の現場」「純粋経験」「現在意識」「純粋意…

悟りの証明(15)

以下、悟りの証明(14)のチャートの各項目について詳述します。 覚者の立場 ▼ 無我・・・・・・無我即我・・・・・・我 即非 絶対矛盾的自己同一 「無我」と「我」との関係は「無我即我」すなわち「無我にして我」ということになり、「即非の論理」(鈴木大…

悟りの証明(14)

上来をまとめてみると、次のようになります。 (覚者の立場) ▼ 無我・・・・・・ハタラキ 主観・・・・・・主客未分・・・・・・客観 作用・・・・・・無作の作・・・・・・対象 無我・・・・・・無我即我・・・・・・我 一・・・・・・・一即多・・・・・…

悟りの証明(13)

悟り(13) 私たちの知には、「相対知=分別知」と「絶対知=無分別知=直覚=自知=自己同一知=般若」との二種があります、そして後者が前者に先立って働くという特徴があります。 「父母未生已前のお前の面目は」 「隻手の声を聞け」 「聞かぬ前の鐘の音…

悟り(13)

私たちの知には、「相対知=分別知」と「絶対知=無分別知=直覚=自知=自己同一知=般若」との二種があります、そして後者が前者に先立って働くという特徴があります。 「父母未生已前のお前の面目は」 「隻手の声を聞け」 「聞かぬ前の鐘の音を聞け」 こ…

悟りの証明(12)

「無意識の意識」「無知の知」「無作の作」を把握すること、体験として知ること、体得することが悟りです。決して対象化できない主観を直(直接)に知ることが悟りです。 以上のことから導きだされる重要なポイントは、私たちには「二つの知の作用」「二つの…

悟りの証明(11)

公案は多様ですが、数種に分類することが出来ます。上記とは一味違った公案を紹介します。 師匠と弟子が一緒に散歩をしていました。空を見上げれば、折しも野鴨子が飛んでいました。 師匠「あれは何だ」 弟子「野鴨子です」 師匠「何処に飛んで行くのか」 弟…

悟りの証明(10)

仏とは?悟りとは?仏性とは?と問われた覚者たちは、次のように答えています。 「庭前柏樹子」 「乾屎厥」 「牆壁瓦礫」 「麻三斤」 「東山水上行」 弟子たちはこのように説かれた意味・内容を必死に解こうとします。この時、覚者たちは内心なにを思ってい…

悟りの証明(9)

上来をまとめると次のようになります、 第一段 「色の世界」「客観界」「意識された世界」「意識の対象界」「物象化された世界」「物の世界」「自然界」「所の世界」(所とは能所の所) 第二段 「空の世界」「主観界」「意識する世界」「意識の作用界」「物…

悟りの証明(8)

正解は「是同」すなわち三般(三種)は同一です。何故かを詳しく説明します。 これら二つの偈は何れも「色→空→色即空」ということを説いています。私たちの「三つの認識の立場」について述べているのです。そして、これら三つの立場は三段目の立場に集約され…

悟りの証明(7)

道元の文は非常に行間が広く難解なので、大胆に意訳しないと意味が通じません。 「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。」 ものごとが実在=動的・具体的・全体である時、(それらを客観的に見れば)それらは「…

悟りの証明(6)

仏教では、しばしば「向かえば背く」といいます。これは悟りを求める人にとって非常に重要なことです。 親鸞は九歳で出家し、二十九歳で、長年の修行にもかかわらず悟りを得ることなく失意のうちに比叡山を下り、京都の「六角堂」に100日間籠ったと伝えられ…

悟りの証明(5)

悟るということは、要するに、私たちは「客観界」「意識された世界」「意識の対象界」に住んでいるという生来(生まれた時から)の思い込みを反転させて、「主観界」「意識する世界」「意識の作用界」に住んでいるということに気づくだけのことです。私たち…

悟りの証明(4)

渓声便是広長舌 (けいせいすなわちこれこうちょうぜつ) 山色無非清浄身 (さんしきしょうじょうしんにあらざらんや) 夜来八万四千偈 (やらいはちまんしせんのげ) 他日如何挙以人 (たじついかんかひとにこじせん) (意訳) 渓声(谷川の音)は饒舌であ…

悟りの証明(3)

仏教の言説は、当然のことながら、「主観の立場」に立っています。しかし私たちのほとんどすべては、無自覚に、「客観の立場」に立っています。私たちは誰でも主観の対語は客観、精神の対語は自然(物質)、心の対語は物と思っています、つまり主観VS客観、…

悟りの証明(2)

そこで、仏教は主観を語る(説く)ことを使命としますが、しかし、主観は語るごとが出来ないというジレンマに陥ります。仏教(悟り)を伝え残すことの難しさはここにあります。 「釈尊四十九年一字不説」 釈迦は悟りを得て入滅するまでの49年間、一字(一度…

悟りの証明(1)

神(宗教)は私たち人間の諸要請から生まれました。 1、 生活の要請 天変地異を司る支配者は神である 2、 秩序の要請 世界(自然、社会)の秩序の維持者は神である 3、 生命の要請 永遠の命としての神と同化したい 4、 論理の要請 因果律の要求から、世…

悟りの証明(はじめに)

仏教は「悟り・見性」の宗教です。従って、悟りを得ていない者は、いかなる宗派のいかなる高僧といえども、仏教を語る資格はありません。出家であろうが、在家であろうが、仏道を歩む本人にとって、仏教は非情なものです。悟りを得てすべてを得るか、悟りを…