悟りの証明

残日録

2016-01-01から1年間の記事一覧

悟りの証明(58)

嘗て「何故人を殺してはいけないのか?」という単刀直入の問に対して、大江健三郎や吉本隆明等の所謂知識人は、理窟を捏ね回しているだけで、明確な答えを出すことが出来ませんでした。実際の倫理的判断には時間的猶予はありません、即座に判断し行動しなけ…

悟りの証明(57)

「なぜ人を殺してはいけないの?」この問いは、1997年8月15日、 故筑紫哲也がキャスターを務めたテレビ番組『ニュース23』が企画・放映した「ぼくたちの戦争’97」という特集コーナーで、高校生たちが大人たちと討論する中、ある高校生がこの問いを投げかけ、…

悟りの証明(56)

安全保障、集団的自衛権、憲法改正、沖縄米軍基地、尖閣諸島、南シナ海、イスラム国、米大統領選、北朝鮮、慰安婦、原発、TPP、八重洲移転、オリンピック、その他諸々の事件・事故、これら一切の問題(イシュー)は最終的に「人格問題」「倫理問題」「善か悪…

悟りの証明(55)

西田幾多郎は仏教の「即非の論理」に基づいて「絶対矛盾的自己同一の論理」を「西洋の倫理」とは全く別の日本独自の論理として確立しようとしました。しかし、西田は『絶筆』において次のように述べています。 「抽象的論理の立場からは、具体的なるものは考えら…

悟りの証明(54)

先に述べたように、三島由紀夫の『文化防衛論』に次のような行があります。 「日本文化から、その静態のみを引き出して、動態を無視することは適切ではない。」 また、<動態>こそが日本文化の特色であるとする西田幾多郎は、『日本文化の問題』(1938年講…

悟りの証明(53)

常朝の<死の作法化><死の型化>はともかくとして、私たちが日々の生活を「作法化」し、<生活の型>をつくることは難しいことではありません。毎日何気なく習慣になっている行動を反省し、安全・安心・快適な生活という目的を設定して、その生活シーン毎…

悟りの証明(52)

山本常朝は自らの一生を<作法化>し、<生の型>をつくりました。未来に目的を持って生きるということは、その目的が現在の行動となるという<円環>を意味します。常朝は「死ぬ」ことを目的にすることで、自らの日常行動を「死ぬ行動」として、そこに<行…

悟りの証明(51)

「型」とは、ある目的を達成するための「行動の法則」「作の法」つまり「作法」であり、人間の行動でありながら人間の行動を超えた「自然のハタラキ」「自然の行動」、自然にして人為であるところから「自然即人為」「無作即作」「無作の作」ということにな…

悟りの証明(50)

日本文化を論じるとき、三島由紀夫の『文化防衛論』を看過することは出来ません。 「日本文化から、その静態のみを引き出して、動態を無視することは適切ではない。日本文化は、行動様式自体を芸術作品化する特殊な伝統を持っている。武道その他のマーシャル…

悟りの証明(48)

転載・拡散自由

悟りの証明(49)

オバマ大統領が来日して、広島で大演説を行い、「核廃絶・核不拡散」を訴えました。日本も国際社会も「核廃絶・核不拡散」は殆ど不可能(核保有国の自己欺瞞・自己矛盾・自己都合)と知りつつ、努力することには何ら異存はないということで、このパフォーマ…

悟りの証明(47)

倫理の悪の方面を深く掘り下げていくと、巨悪とは何かということになり、それは戦争以外にないということになります。 私たちは先の戦争に敗れ、自虐史観と自尊史観、左と右に国論を二分しながら不毛の「相殺議論」を70年もの長きにわたって継続し、未だに戦…

悟りの証明(46)

「なぜ人を殺してはいけないの?」 この問いは、1997年8月15日、故筑紫哲也がキャスターを務めたテレビ番組『ニュース23』が企画・放映した「ぼくたちの戦争’97」という特集コーナーで、高校生たちが大人たちと討論する中、ある高校生がこの問いを投げかけ、…

悟りの証明(45)

倫理を求めた吉本は、結局、自らの思想にも宗教にもその窮極的な答えを得ることなく逝ってしまいました。吉本は思想による倫理の追求に限界を感じ、親鸞(宗教)にその望みを託しましたが、結局、親鸞を理解することなく世を去りました。しかし、この講演の…

悟りの証明(44)

主知主義者である吉本は倫理というものを全く理解していません。この講演のような愚かな知を拡散すること自体が倫理に反する悪であることを認識していないのです。<真の倫理は倫理を否定する>ということ、<「人知」によって倫理を語ることが悪である>と…

悟りの証明(43)

吉本隆明の183講演(要検索)の一つ『親鸞の造悪論』に対して、批判を続けます。 「だから、現在の状況では、やっぱり、理念が存在することも、それから、宗教が存在することも認めなければならない。それは、迷妄な部分をもっていても認めなければならない…

悟りの証明(42)

吉本隆明の183講演(要検索)の一つ『親鸞の造悪論』に対して、批判を続けます。 吉本がこの講演において披瀝している内容は、吉本の「知識の対象界」であって、吉本によって知られた世界、吉本によって描かれた世界、すなわち吉本の「客観界」「色の世界」…

悟りの証明(41)

吉本隆明の183講演(要検索)の一つ『親鸞の造悪論』に対して、批判を続けます。 「それから、宗教思想の迷妄な部分は、かならず、理念的になっています。ようするに、なにかイデオロギーになって出てきてしまいます。つまり、それが、現在における、現実の…

悟りの証明(40)

吉本隆明の183講演(要検索)の一つ『親鸞の造悪論』に対して、批判を続けます。 「信仰の問題を、浄土真宗っていうのは最も最初に、一種の善悪の問題、つまり、倫理の問題に、一等最初に置き換えた宗派なわけです。つまり、仏教の僧侶の出家の修行っていう…

悟りの証明(39)

「悟らずして仏教を語ることなかれ」に反して、仏教を語った吉本隆明の「愚の思想」を分析してみることも一興であり、仏教を深く知る上でも意義あることと思います。 吉本隆明の183講演(要検索)というものがあり、その中に『親鸞の造悪論』があります。 「…

悟りの証明(38)

私たちの「普段の意識」「二次的意識」「人間意識」「人為の意識」に対して、「三昧の意識」「一次的意識」「仏の意識」「自然の意識」が対立します。仏教の要諦は、三昧の立場に立ち、三昧においてハタライテイル「自然(じねん)の意識」「無意識の意識」…

悟りの証明(37)

公案に『風性常住無處不周』(風性は常住にして処として周らざる無なし) というのがあります。これは宝徹禅師と一僧との問答に由来します。 宝徹禅師が暑気払いに扇を使っていると、ある僧がやって来て、 一僧「仏教では『風性常住無處不周』といっています…

悟りの証明(36)

大燈国師(鎌倉時代の禅僧)にまつわる有名な小話があります。 ある役人がまっか瓜(国師の好物)を渡そうとして、国師に向かって「無手で受け取れ」と言ったのに対して、国師は「無手で渡せ」と応じたと言うことです。この話は両者共に「覚者」ではないと成…

悟りの証明(35)

「山の中にいて山を見る(知る)」とは三昧(一次的意識)において三昧を見る(知る)ということで、「山を離れて山を見る(知る)」とは二次的意識において二次的意識を見る(知る)ということになります。三島由紀夫の絶妙の表現「主体なき客観性」とは、客観界…

悟りの証明(34)

宇宙のハタラキ(力・エネルギー)は人間のハタラキ(生命力・精神力)として降臨(神人同性)するだけではなく、一切の物に降臨(神物同性)し、八百万の神々を現成させ、この宇宙・この世界を「ハタラキの世界」「生命の世界」に転じます。所謂自然は無意味な物…

悟りの証明(33)

「一即多」すなわち宇宙のハタラキ(一)は私たちのハタラキ(多)として降臨してきます。西田幾多郎はこれを「私たちの人生とは宇宙精神を実験することである」と実感を込めて述べています。この宇宙精神とは宇宙のハタラキを意味しています、ハタラカない精神…

悟りの証明(32)

宇宙のハタラキは人間のハタラキ、すなわち神のハタラキは人のハタラキとして「神人同性」というのが神道であり仏教です。嘗て、日本人であれば生きとし生けるものにはすべて神が宿ると無意識に意識するのが普通でしたが、欧米思想のコピペを専業とする知識人…

悟りの証明(31)

仏教の教説は悟りを得ずして理解することは出来ません。悟りは三昧・一次的意識において般若・直覚・直観によって自覚されるハタラキです。三昧は主客未分の意識状態で、意識の内容(未だ意識対象にはなっていない)のみが現前している状態で、意識作用が意…

悟りの証明(30)

悟りの証明(29)

我と無我、いずれが「本当の我」・「真我」でしょうか? 答えはいずれでもありません。上来述べてきたように、我とは「ハタラキ」のことです。誤解してはいけないのは、我がハタラキを持っていて、我がそのハタラキを使うのではありません、「ハタラキが我」な…