悟りの証明(47)
倫理の悪の方面を深く掘り下げていくと、巨悪とは何かということになり、それは戦争以外にないということになります。
私たちは先の戦争に敗れ、自虐史観と自尊史観、左と右に国論を二分しながら不毛の「相殺議論」を70年もの長きにわたって継続し、未だに戦後は終わることなく、悶々とした出口なき暗闇を彷徨っています。私たちがこのようなアポリアに直面したとき、尋ねるべきは、ある特定の「借り物の外来思想」ではなく、<慣習法>ということになります。<慣習法>には、私たちの先祖達が長い時間をかけて試行錯誤しながら、具体的な事件に即した現実的な叡智を見ることができます。
<慣習法>の由来を突き詰めていけば、宗教(神道と仏教)と言語(日本語)いうことになります。日本人は無宗教であると自他共に認めていますが、特定の宗教が意識されている間は未だ宗教とは言えません、宗教が空気のようなものになり、「無意識の意識」として自ずとハタラクようになって始めて宗教が根付いているということができます。日本人は十分に宗教的な国民です。また、仏教は漢文・漢字を伴って日本に伝来し、<慣習法>のもう一つの由来である「日本語」の礎となりました。漢文・漢字によってもたらされた高度な抽象概念や形而上学的概念は、日本人の流動的で豊かな観念を固定し、深く思惟し、普遍化する上で不可欠なものでした。
それでは、一体、私たちが未だに引きずっている不毛でオタク的な戦後の議論に終止符を打ち、毅然として国際社会に対応するための拠り所となる<日本の慣習法>とは何か、それは、『喧嘩両成敗』という「戦の法」以外にはありません。
『喧嘩両成敗式目』
第一 天下泰平に背く喧嘩口論は両成敗とする
第二 喧嘩口論の裁定者は客観的第三者でなければならない
第三 喧嘩口論の当事者双方はその理非を問わず罰を受けねばならない
第四 喧嘩口論の当事者双方はその罪に相当する罰を受けねばならない
第五 喧嘩口論の当事者に加担した者も同様に罰を受けねばならない
第六 斯くして報復の連鎖は断たねばならない
(筆者まとめ)
この式目を一見すると、次のような特徴を読み取ることができます。
1、戦争当事者の理非超越の論理 「即非の論理」=「「仏教の論理」
2、上位絶対権力と下位主権の是認
3、自力救済との決別
4、戦争の抑止
5、プロパガンダ競争の無意味化
6、戦争の早期解決
7、連座制
8、報復の抑止
この『喧嘩両成敗』の意義を、先ず、私たち日本人自身が理解し、そして、これを<理念法>として国際社会に流布することが出来たならば、次のようなメリットを享受することが期待出来ます。
1、国論二分相殺という戦後の超克(国内)
2、侵略国家日本汚名返上、名誉回復(国内)
3、国際社会における歴史問題の無意味化
4、国際社会平和化への貢献
5、日本の国際的地位向上
先ず戦前、私たちが真に反省すべきは、この『喧嘩両成敗』という倫理の法が、<慣習法>として存在していたにもかかわらず、一顧だにされることなく、先の大戦に踏み切ったことです。当時、この『喧嘩両成敗』を意識することが出来ていたならば、<自力救済>の愚かさを理解できたはずです。戦争回避のためのしかるべき努力が払われたはずです。
そして終戦、『東京裁判』が開廷され、連合国によって「自力救済」と「勝てば官軍」の論理によって、日本だけを被告として、<事後法>である「平和に対する罪」「戦争犯罪」「人道に対する罪」という三つの罪をもって日本を裁きました。そして、一方的に「侵略国日本」という烙印が押されました。それでも、日本はこれらの罪を認め罰を受け入れ、賠償を行い、謝罪は今日まで続いています。斯くして、<第一回>の「東京裁判」は終わったのです。この<第一回東京裁判>に異論を唱える向きもありますが、異論を唱えるということは「理非を問う」ということであり、『喧嘩両成敗』に異を唱えるということです。それでは『喧嘩両成敗』による<第二回東京裁判>には進むことはできません。
ヘランボ・ラル・グブタ(インド独立運動の指導者)
「極東軍事裁判、即ち東京裁判は、二十一世紀に入れば必ず多くのアジアの国々によって見直されるであろう。そして第二回東京裁判が実現する。その頃はアジアも良識を取り戻し、すべてが公正にして真理の法の前で平等に裁かれるだろう。・・・」(草開省三『インド独立秘話』)
<第二回東京裁判>とはいかなるものであるべきか、その一つの試みとして、2007年7月16日『原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島』(要検索)が開廷されましたが、この法廷には<喧嘩両成敗という理念>がありませんでした。結果的に、この法廷は国際社会に広く認知されることはありませんでした。
私たちが理念を実現しようとするとき、先ず、知らなければならないことは「過去と現在」です。過去と現在を踏まえながら一歩一歩進む以外に理念の実現はあり得ません。「革命」などという愚かな思想は「過去と現在」を破壊するだけです。過去と現在という歴史的必然を断つということは自らの生命を絶つということに他なりません。
「理念のために現実があるのではありません、現実があるから理念が必要なのです。」
もしも、『原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島』以前に、『喧嘩両成敗』の精神と概念が国際社会に広く認知されていたら、この法廷はある程度成功したかも知れません。しかし、このような民衆法廷はリベンジとみなされ、反発を買うだけです。
私たちがやらねばならないことは『喧嘩両成敗』の精神と概念の国際社会における周知徹底です。この周知徹底はさほど難しいことではありません。次のことを戦略的に行えば、5年もあれば十分です。
1、泉岳寺を世界文化遺産に登録し、世界平和祈願のメッカとする。
2、ホームページを開設する。
3、『忠臣蔵』の書籍、映画、DVD、漫画、アニメ等を制作し配布する。
4、国際会議の会場には必ず、額縁入りの『喧嘩両成敗式目』を掲揚する。
<第二回東京裁判>は、ただ、『喧嘩両成敗の意義』を国際社会に伝え、理解を促すこと、それで十分なのです。
※『喧嘩両成敗』は絶対平和主義を理念としていますが、国際社会の現実は、絶対権力が不在であり、「自力救済」であり、「勝てば官軍」です。従って、憲法九条の第二項は改正されなければなりなせん。
(つづく)