悟りの証明

残日録

悟りの証明(69)

 

 一僧「如何なるかこれ祖師西来意」

趙州「庭前の柏樹子」

一僧「境をもって示すことなかれ」

趙州「吾、境をもって示さず」

一僧「如何なるか是れ祖師西来意」

趙州「庭前の柏樹子」

 

「如何なるかこれ祖師西来意」という問いは、仏教とは、仏とは、悟りとはといった問いと同じものですが、この問いに対する趙州の答えが「庭前の柏樹子」ということになっていますので、「庭前の柏樹子」が何を意味しているのかを明らかにしなければなりません。

しかし、「庭前の柏樹子」とは、趙州がたまたま庭先にあった柏樹子を見て答えたものなので、「庭前の柏樹子」自体に意味はありません。「庭前の石ころ」であっても差し支えありません。

 

一僧は、この趙州の「庭前の柏樹子」を「境」すなわち「意識の対象」ではないか、と言って抗議しますが、趙州はこの抗議を否定して、敢えて「庭前の柏樹子」と繰り返します。なぜ敢えて繰り返したのか、それは一僧の「庭前の柏樹子」と趙州の「庭前の柏樹子」とは全く別物であるということを強調するためです。一僧の「庭前の柏樹子」は「色」としてのそれですが、趙州の「庭前の柏樹子」は「色即空」としてのそれなのです。単なる「色」と「色即空」の「色」とは抜本的に相違するものです。

 

因みに、

 

廬山は煙雨 浙江は潮、

到らざれば千般の恨む消せず。

到り得 帰り来たれば別事なし、

廬山は煙雨 浙江は潮。

 

これは蘇東坡の詩ですが、最初の「廬山は煙雨 浙江は潮」は単なる「色」ですが、最後の「廬山は煙雨 浙江は潮」は「色即空」の色です。この詩について鈴木大拙は次のように評しています。

 

「彼(蘇東坡)はもはや昔日の彼ではないと言いえるのである。蘇東坡のみならず、廬山もまた昔日の廬山ではない。廬山のサット(存在)は今や廬山のチット(意識・思惟)を得たのだ。それは昔日の傍観者、蘇東坡にあっても同様である、そして両者はついにアーナンダ(歓喜)を得て一つとなるのである。これは世界が経験し得る最大の出来事ではないだろうか。」(『鈴木大拙選集3』禅による生活、P10)

 

一僧の「庭前の柏樹子」は単なる「境」(意識の対象)であり、悟りを得ていない一僧にとっては「境」としか考えられないものです。しかし、覚者である趙州の「庭前の柏樹子」は「境即人」の「庭前の柏樹子」なのです。「人」とは「境」の反対概念で「意識の作用」「意識のハタラキ」のことです。趙州の「庭前の柏樹子」は意識作用と意識対象とが一つになっているのです、意識作用は主観であり、意識対象は客観ですから、「主観即客観」すなわち「主客合一」の「庭前の柏樹子」なのです。「主客合一」あるいは「主客未分」においては主観は没して客観だけが顕現しますので、趙州の主観は顕現せずに客観だけが顕現しているので、これを表現すると「庭前の柏樹子」というっことになります。これが所謂「そのものに成りきる」ということの真意です。趙州は「庭前の柏樹子」に成りきっているのです。「成り切る」とは「意識の完全な統一状態」すなわち「三昧」「定」を意味し、この「統一状態」を現出する「統一力」を自得することこそが「悟り」なのです。

 

絶対に相矛盾する主観と客観が合一するということは、「主観即客観」ということであり、主観と客観は非(矛盾)でありながら即(自己同一)であるという鈴木大拙の「即非の論理」を意味し、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」ということを意味しています。

 

西田幾多郎は私たちの主客の「統一力」(心理学用語では統覚)について、次のように述べています。

 

「而して真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。而してこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽くして一たびこの世の慾より死して後蘇るのである。このようにして始めて真に主客合一の境に到ることが出来る。これが宗教道徳美術の極意である。キリスト教ではこれを再生といい、仏教ではこれを見性という。」(西田幾多郎全集第一巻、善の研究、P167~168)

 

私たちは皆、生まれながらに意識の統一力である「統覚」を持っています、正しい表現をすれば、私たちは統覚を持っているのではなく、統覚という意識のハタラキが私たちなのです、統覚という「当為」(Sollen)が私たちという「存在」(Sein)なのです。この「当為」と「存在」の一致を西田幾多郎は「事行」といっています。趙州の意識作用は「当為」であり、趙州の意識対象である「庭前の柏樹子」は「存在」です。この公案において、趙州は当為と存在が一致する「事行」のところに悟りがあると説いているのです。(つづく)