悟りの証明

残日録

悟りの証明(68)

「善人なおもて往生を遂ぐいわんや悪人をや」

 

仏教を理解することの難しさは、今日に於いても尚、親鸞の上記・『悪人正機説』の正しい解釈がなされていないということを見れば明らかです。

 

因みに、吉本隆明親鸞に関する数冊の本を出版していますが、内容は全く低次元のもので一読にも値しないものです。マスコミに「知の巨人」(?)ともてはやされた吉本にしてこの程度ですから、何をか言わんやということになります。吉本のような仏教の曲解はオウム真理教のような邪教を生む危険性を常に孕んでいます。現に、その危険性は親鸞の存命中にも善鸞親鸞の長男)の間違った教化によって教団が混乱したために、親鸞自身が我が子を義絶するという事件が起きています。

 

親鸞浄土真宗の宗祖ですが、禅宗と同様に、「無分別」を説き、分別を超えた「信」をもって、仏教への「直入」、すなはち理屈抜き「分別抜き」で飛び込むことを奨励しました。上記の『悪人正機説』はまさにそのスローガンというべきものです。「善人なおもて往生を遂ぐいわんや悪人をや」とはまさに「無分別」そのものであり、その無分別を明言することで分別し、「無分別を分別」としているのです。

 

親鸞は神童と言われるほどの秀才で、9歳で出家し、20年間比叡山に籠もり、仏道修行に身命をなげうちました。親鸞としては仏道修行の行程である「教・行・信・証」の「教(論理的追求)」は極めたに相違ありませんが、肝心なもう一歩、「百尺竿頭進一歩」がならず、「悟り」を得ることなく失意のうちに比叡山を下山しました。下山後しばらくして浄土思想に遇い、そこで間もなく見性しました。親鸞は20年間の分別に分別を重ねた「分別修行」の末に、「無分別」に到達したのです。親鸞の20年は皮肉にも全く逆方向の修行だったのです。「向かえば即ち背く」を地で行く修行だったのです。親鸞が自らを「愚禿」と称して自嘲したのも宜(うべ)なるかなと頷けます。

 

「無分別」とは分別しないと言うことです、言語・概念をもって考えないということです、思惟しないということです。思惟とは現実を反省し人間の世界・人工の世界(カントの現象界)を構築することです。仏教は現実を反省し構成するのではなく、現実を現実のまま、ありのまま、認識することを説きます。カントも指摘したように、私たちは思惟することによって、その対象界・現象界を構築し、時間・空間・因果の虜になっているのです。この世界は自然必然の世界なので、私たちの自由はありませんし、「静的抽象的部分」の世界なので、十全な世界ではありません。私たちに自由はなく、自然必然によって行動するということになると、倫理・道徳というものは成立しません。集団生活によって社会を形成することによって生存する私たちが倫理をなくせば滅亡は必定です。

 

カントは『実践理性批判』の中で、次のように言っています。

 

「もし時間の中でその規定されている存在者に自由を与えようと思っても、その限りでは少なくとも、その存在者をその存在に於いては、あらゆる出来事の、従ってまたその行為の自然必然の法則から除外することは出来ない。(中略)それ故、もし自由を救おうと思うならば、時間の中で規定し得られる限りの物の存在は、従って自然必然の法則による因果は、ただ現象だけに与え、これに反し自由は物自体自身としてのまさにその同じ存在者に与えるよりほかに方法は残っていない。」

 

一体何を言いたいのかわかりづらい表現ですが、要するに、私たちは思惟の対象界(現象界)に属する限り、自然の因果から逃れることは出来ず自由はない。もし自由を求めるならば、現象界の住人ではなく、「物自体」の世界の住人にならねばならないと主張しているのです。カントの「物自体」という概念は「不明瞭な遺産」として後続を悩ませましたが、カントの哲学自体、この「物自体」という「仮定」の上に成り立っているところに弱点があります。これは「模写主義」の思想、すなはち私たちの意識を離れて、私たちの意識とは無関係に、私たちの意識の外に客観的に物が存在し、この客観的な物の存在を知ることが正しい知識であるという思想に基づいています。「私たちの意識の外に物が存在する」というのは推理による仮定に過ぎません。真理はいかなる仮定も必要としない故に真理なのです。私たちが正しい知識を得るには、仮定ではなく、現実や事実(現実の一つ)に基づかなければなりなせん。私たちは思惟すなわち分別によって自由を失い、しかも不確かな知識によって生きなければならなくなるのです。

 

仏教を理解するにはこの「物自体」を「三昧」「一次的意識」「純粋経験」「現在意識」と考えればわかりやすくなります。「物自体」とは現実そのもの、ありのまま、如如ということで、思惟の反省の対象になるものです。思惟は「物自体」を反省してその対象界(カントの現象界)を構築しているのです。これが私たちの所謂「世界」といっているものです。カントは私たちの意識の秘密である三昧の存在を看過していたので、「物自体」を仮定せざるを得なかったのです。

 

「三昧」「一次的意識」「純粋経験」「現在意識」等の世界は「無分別」の世界です。仏教はこの無分別を分別すること、無分別を意識することを私たちに求めるのです。仏教は、私たちが無分別を分別することで、無分別の存在を明らかにし、分別知とは抜本的に異なる「無分別知」・般若を自覚する(悟る)ことで自由と正しい知識を得て、真に充実した人生を送ることを悲願としているのです。(つづく)