悟りの証明

残日録

2015-06-01から1ヶ月間の記事一覧

悟りの証明(10)

仏とは?悟りとは?仏性とは?と問われた覚者たちは、次のように答えています。 「庭前柏樹子」 「乾屎厥」 「牆壁瓦礫」 「麻三斤」 「東山水上行」 弟子たちはこのように説かれた意味・内容を必死に解こうとします。この時、覚者たちは内心なにを思ってい…

悟りの証明(9)

上来をまとめると次のようになります、 第一段 「色の世界」「客観界」「意識された世界」「意識の対象界」「物象化された世界」「物の世界」「自然界」「所の世界」(所とは能所の所) 第二段 「空の世界」「主観界」「意識する世界」「意識の作用界」「物…

悟りの証明(8)

正解は「是同」すなわち三般(三種)は同一です。何故かを詳しく説明します。 これら二つの偈は何れも「色→空→色即空」ということを説いています。私たちの「三つの認識の立場」について述べているのです。そして、これら三つの立場は三段目の立場に集約され…

悟りの証明(7)

道元の文は非常に行間が広く難解なので、大胆に意訳しないと意味が通じません。 「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。」 ものごとが実在=動的・具体的・全体である時、(それらを客観的に見れば)それらは「…

悟りの証明(6)

仏教では、しばしば「向かえば背く」といいます。これは悟りを求める人にとって非常に重要なことです。 親鸞は九歳で出家し、二十九歳で、長年の修行にもかかわらず悟りを得ることなく失意のうちに比叡山を下り、京都の「六角堂」に100日間籠ったと伝えられ…

悟りの証明(5)

悟るということは、要するに、私たちは「客観界」「意識された世界」「意識の対象界」に住んでいるという生来(生まれた時から)の思い込みを反転させて、「主観界」「意識する世界」「意識の作用界」に住んでいるということに気づくだけのことです。私たち…

悟りの証明(4)

渓声便是広長舌 (けいせいすなわちこれこうちょうぜつ) 山色無非清浄身 (さんしきしょうじょうしんにあらざらんや) 夜来八万四千偈 (やらいはちまんしせんのげ) 他日如何挙以人 (たじついかんかひとにこじせん) (意訳) 渓声(谷川の音)は饒舌であ…

悟りの証明(3)

仏教の言説は、当然のことながら、「主観の立場」に立っています。しかし私たちのほとんどすべては、無自覚に、「客観の立場」に立っています。私たちは誰でも主観の対語は客観、精神の対語は自然(物質)、心の対語は物と思っています、つまり主観VS客観、…

悟りの証明(2)

そこで、仏教は主観を語る(説く)ことを使命としますが、しかし、主観は語るごとが出来ないというジレンマに陥ります。仏教(悟り)を伝え残すことの難しさはここにあります。 「釈尊四十九年一字不説」 釈迦は悟りを得て入滅するまでの49年間、一字(一度…

悟りの証明(1)

神(宗教)は私たち人間の諸要請から生まれました。 1、 生活の要請 天変地異を司る支配者は神である 2、 秩序の要請 世界(自然、社会)の秩序の維持者は神である 3、 生命の要請 永遠の命としての神と同化したい 4、 論理の要請 因果律の要求から、世…

悟りの証明(はじめに)

仏教は「悟り・見性」の宗教です。従って、悟りを得ていない者は、いかなる宗派のいかなる高僧といえども、仏教を語る資格はありません。出家であろうが、在家であろうが、仏道を歩む本人にとって、仏教は非情なものです。悟りを得てすべてを得るか、悟りを…