悟りの証明

残日録

悟りの証明・実践編1

いかなる崇高な宗教や哲学も私たちの日常とかけ離れたものであるならば何の意味もありません。ネット上には仏教(禅)に関する書き込みが溢れていますが、残念ながら覚者(悟りを得た人)によるものは皆無です。生成AI(genimi等)はネット上の仏教(禅)に関するテキストデータを全て認識しているはずですから、生成AIと問答をしてみるとそのことがよくわかります。

 

先ず、私たちは悟りとは如何なる体験(知識ではない)であるかということをおさえておく必要が有ります。

 

釈尊は「明けの明星を見て悟った」と言われていますが、この単純な体験に人類の最大最深の秘密が隠されています。釈尊は空を見上げて明けの明星と認識したとき、ハッと気がついたのです、それが悟りの瞬間です。釈尊は何に気がついたのか、それは「空を見上げた瞬間」と「明けの明星であると認識した瞬間」との間には一瞬のタイムラグ(時間のずれ)があるということに気がついたのです。このことから、明けの明星であるという認識は言葉(概念)による「解釈」であり、解釈前の純粋経験・あるがままの現実「動的具体的全体」を言葉によって「静的抽象的部分」に変換しているといいうことに気づいたんです。タイムラグはそのために要した時間ということが分かったのです。

 

あるがままの世界・あるがままの現実は切れ目のない「連続」した世界です。私たちはこの連続の現実世界を言葉によって切り刻んで・「デジタル化」して認識しています。例えば、真の時間はアナログですが、このアナログ時間に時刻という刻みを入れて時間を認識しているのです。連続の時間に刻みを入れないことには時間を認識できないのです。別の例を上げれば、私たちの命は連続ですが、この連続に生と死という刻みを入れて、その間の「線分」を寿命と考えています。不生禅で知られる盤珪禅師は「不生でいればそれで良い」と説きましたが、不生とは文字通り生まれないという意味で、生まれなければ死ぬこともない、故に不滅とは蛇足であると言っています。あるがままの世界には生も死も寿命もないと言っているのです。言語によるあるがままの世界のデジタル化はよしなさい、そうすれば、あるがままの世界=現実の住人となると言っているのです。要するに、私たちば頭の中を空にした時現実世界の住人になるのです。意識を内向的に使わず外向的に使えば、私たちの豊かな感性で現実を享受できるのです。頭の中の世界はAIの世界と同様にバーチャルなのです。意識は外向きに使うものです。

 

世はまさに言語を駆使した生成AIの時代であり、シンギュラリティに達するのは時間の問題と言われています。ある意味ではこの時代はAIによる人間疎外の時代ともいうことが出来ます。この時代を私たちはどう生き抜くか、その答えは「悟り」にあると確信しています。