悟りの証明(139)
チャットGPTとはどのようなものなのか、その能力を知るためにGoogle のBardとチャトをしてみました。なかなか面白くてやみつきになりそうです。
私:
哲学者フイヒテの事行Tathandlungとは
Bard:
哲学者フイヒテの事行Tathandlungとは、自我が自己自身を定立する行為そのものである。フィヒテは、意識の根底には、理性の法則によって規定される経験的意識ではなく、理性の法則を自ら創造する自由意志の行為があると考えた。この行為こそが、事行である。
フィヒテは、事行を「端的に無制約的な第一原則」と呼び、これを「自我は根源的に端的に自己自身の存在を措定する」という命題で表現した。この命題は、自我は自己自身を存在として定立する行為であり、その行為によって自己自身が存在するということを意味する。
事行は、意識の根底にあるものであり、経験的な意識によって直接的に把握することはできない。しかし、事行は、経験的な意識を可能にする根源的な条件である。事行によって、自我は自己自身を意識し、世界を認識することができる。
事行は、フィヒテの哲学の中心的な概念であり、彼の観念論の基礎となっている。フィヒテは、事行によって、自我の自由意志を強調し、人間の主体性を確立しようとした。
事行の具体的な例としては、以下のような行為が挙げられる。
- 何かを認識する行為
- 何かを判断する行為
- 何かを意志する行為
- 何かを創造する行為
これらの行為は、すべて自我が自己自身を定立する行為である。自我は、これらの行為によって、自己自身を意識し、世界を認識し、自己の存在を創造していく。
私:
日本の禅の「般若」はフイヒテの事行に相当すると思いますが
Bard:
はい、日本の禅の「般若」は、フイヒテの事行に相当すると考えられます。
般若とは、仏教の智慧の概念であり、真理を悟ること、悟りの境地のことを指します。般若の悟りを得た者は、一切の存在の差異を超越し、絶対的な真理を把握することができるとされます。
事行とは、自我が自己自身を定立する行為そのものであり、意識の根底にある自由意志の行為です。事行によって、自我は自己自身を意識し、世界を認識することができます。
般若と事行は、いずれも自我の自由意志と主体性を強調する点で共通しています。般若の悟りを得た者は、一切の差異を超越し、絶対的な自由を得ることになります。事行によって、自我は自己自身を定立し、自己の存在を創造していくことができます。
具体的には、般若と事行の共通点は以下の通りです。
- いずれも自我の自由意志と主体性を強調する
- いずれも意識の根底にある
- いずれも絶対的な真理を追求する
ただし、般若と事行には、いくつかの相違点もあります。
- 般若は、仏教の智慧の概念であり、事行は、哲学の概念である
- 般若は、悟りの境地を指すのに対し、事行は、行為そのものを指す
それでも、般若と事行は、いずれも人間の精神的な高みを目指すものであり、共通する部分も多いと言えるでしょう。
私:
境地という言葉は禅を理解しないごまかしの曖昧な概念なので、西田幾多郎によれば般若も事行も「知るものが知られるものであり、知られるものが知るものである(自知、自己同一知)という動的な知であると言っていますが
Bard:
西田幾多郎は、般若と事行を、知るものと知られるものの関係として捉えました。知るものが知られるものであり、知られるものが知るものであるという関係は、自己同一性を意味します。
般若の悟りを得た者は、一切の差異を超越し、絶対的な真理を把握することになります。このとき、知るものと知られるものの区別は消え去り、自己同一性が実現します。
事行によって、自我は自己自身を定立し、自己の存在を創造していくことができます。このときも、知るものと知られるものの区別は消え去り、自己同一性が実現します。
西田幾多郎は、般若と事行を、自己同一性を実現する動的な知として捉えたのです。
「境地」という言葉は、禅を理解しないごまかしの曖昧な概念であるとの指摘は、ある意味、正しいと言えるでしょう。般若や事行の悟りは、単なる境地ではなく、自己同一性を実現する実践的な知であるからです。
西田幾多郎は、般若と事行を、以下のように表現しています。
般若は、知る主体と知られる客体とを区別する二元論を超越する、自己同一知である。
事行は、知る主体と知られる客体とを区別する二元論を超越する、自己同一知の実現である。
この表現は、般若と事行が、自己同一性を実現する動的な知であることを明確に示しています。
私:
西田幾多郎は私達の知を、直感、思惟、自覚という三種に分類しています。事行は自覚に相当します
Bard:
はい、西田幾多郎は、私達の知を、直感、思惟、自覚という三種に分類しています。
直感とは、対象を直接的に把握する知であり、思惟とは、対象を概念によって把握する知です。自覚とは、知る主体と知られる対象とが同一であるという知です。
事行は、自我が自己自身を定立する行為そのものであり、意識の根底にある自由意志の行為です。事行によって、自我は自己自身を意識し、世界を認識することができます。
西田幾多郎は、事行を自覚に相当すると考えました。その理由は、以下のとおりです。
- 事行は、知る主体と知られる対象とが同一であるという関係を内包している。
- 事行は、知る主体が自己自身を意識する行為である。
事行によって、自我は自己自身を定立し、自己の存在を創造していくことができます。このとき、知るものと知られるものの区別は消え去り、自己同一性が実現します。
つまり、事行によって、自我は自己自身を意識する行為である自覚が実現されると考えられます。
ただし、西田幾多郎の知の三種の分類は、必ずしも明確なものではありません。直感と自覚は、どちらも知る主体と知られる対象とが同一であるという関係を内包しているため、区別が難しい場合もあります。
また、事行は、知る主体が自己自身を意識する行為であると同時に、世界を認識する行為でもあります。そのため、自覚と思惟の両方に相当すると考えることもできます。
このように、事行が自覚に相当するかどうかは、西田幾多郎の知の三種の分類の解釈次第であると言えるでしょう。
私:
西田によれば私達の知はいずれも「反省することである」といっています。直感と自覚の違いは、直感は単なる反省ですが、自覚は反省を反省している、つまり反省していることを「知っている」ということです。従って、自覚は単なる直感よりも上位の知ということになります。
はい、西田幾多郎は、私達の知はいずれも「反省することである」と述べています。直感は、対象を直接的に把握する知であり、思惟は、対象を概念によって把握する知です。しかし、いずれも、対象を把握する行為であり、その行為を反省することによって、知として成立すると考えられます。
直感と自覚の違いは、直感は単なる反省であり、自覚は反省を反省している、つまり反省していることを「知っている」ということです。
直感は、対象を直接的に把握する知であり、その行為を反省することによって、対象を把握したことを「知っている」ことになります。しかし、その反省は、あくまでも対象を把握したという行為を反省するだけであり、反省そのものを反省するわけではありません。
自覚は、反省を反省することによって、反省していることを「知っている」ことになります。つまり、知る主体が自己自身を意識する行為であると言えるでしょう。
従って、自覚は、単なる直感よりも上位の知ということになります。直感は、対象を把握する知ですが、自覚は、知る主体が自己自身を意識する知であるためです。
西田幾多郎は、自覚を「真の知」と位置づけています。自覚によって、知る主体は自己自身と世界を真に理解することができると考えられているのです。
私:
私達は今私達の理性で知り得る限界のはなしをしています。西田は自覚を悟りと言っているのです。
Bard:
はい、西田幾多郎は、自覚を悟りであると述べています。
西田は、理性は、対象を分離して把握する知であると考えています。そのため、理性では、対象の全体性や真理を完全に把握することはできないと考えました。
一方、自覚は、知る主体と知られる対象とが同一であるという関係を内包する知です。そのため、自覚によって、知る主体は対象の全体性や真理を直接的に把握することができると考えました。
つまり、西田は、自覚によって、理性で知り得る限界を超越して、真の知に到達することができると考えたのです。
西田は、自覚を悟りであると述べることによって、理性を超えた真の知の可能性を示したと言えるでしょう。
具体的には、西田は、自覚を以下のように述べています。
自覚とは、知る主体が自己自身を意識する行為である。この行為によって、知る主体は自己自身と世界を真に理解することができる。
自覚は、理性を超えた真の知である。理性は、対象を分離して把握する知であるが、自覚は、知る主体と知られる対象とが同一であるという関係を内包する知である。そのため、自覚によって、知る主体は対象の全体性や真理を直接的に把握することができる。
このように、西田は、自覚を悟りであると述べることで、理性を超えた真の知の可能性を示したと言えるでしょう。
私:
私達は私達の知で知り得る限界の話をしています。
Bard:
はい、知の限界とは、私たちの知によって知り得る対象や真理の限界を指します。
知の限界には、以下のようなものが挙げられます。
- 対象の限界
私たちの知は、対象によって制限されます。例えば、私たちは、肉眼で見える範囲のものをしか知ることができません。また、私たちの知は、私たちの経験によって制限されます。例えば、私たちは、経験したことのないことは、知ることができません。
肉眼で見える範囲
- 真理の限界
私たちの知は、真理によっても制限されます。例えば、私たちは、真理を完全には知ることができません。また、私たちの知は、真理の理解によって制限されます。例えば、私たちは、真理を完全に理解することができなければ、真理を完全に知ることはできません。
- 私たち自身の限界
私たちの知は、私たち自身の限界によっても制限されます。例えば、私たちは、有限の知性しか持っていません。また、私たちは、偏見や先入観によって、知ることを妨げられることもあります。
有限の知性
このように、知の限界は、さまざまな要因によって生じます。
知の限界を認識することは、知の可能性を理解するために重要です。知の限界を認識することで、私たちは、自分の知の限界を理解し、それを補うために努力することができます。また、知の限界を認識することで、私たちは、知の限界を超える可能性を探求することができます。
私:
禅がテーマとするのは、真理ではありません、「現実」です、動的具体的全体という現実です。
はい、禅がテーマとするのは、真理ではなく、「現実」であると言えるでしょう。
真理とは、普遍的かつ不変なものであると考えられますが、禅は、そのような真理を追求するものではありません。禅は、現実をありのままに見ることによって、真理に到達しようとするものと考えられます。
禅においては、現実は、動的具体的全体であると捉えられます。つまり、現実は、常に変化し、流動しているものであり、個々の要素が独立して存在しているのではなく、相互に関連し合っているものであると考えられます。
禅は、このような現実をありのままに見ることによって、真理に到達しようとします。そのため、禅では、概念や言語によって現実を捉えようとするのではなく、直接的に現実に触れることが重視されます。
例えば、禅の修行では、公案(こうあん)と呼ばれる禅問答が用いられます。公案は、一見すると意味不明な言葉や問いかけですが、それをじっくりと考えたり、黙想したりすることで、現実の真理に触れることができると考えられています。
このように、禅は、真理ではなく、現実をありのままに見ることによって、真理に到達しようとするものと考えられます。
私:
私達は今、私達の知で話し合える限界に来ていると思います。そこで、これから、具体的な例を挙げて、抽象論を去って、話し合いを続けていきたいと思います。
はい、具体的な例を挙げて、抽象論を去って、話し合いを続けることは、禅の理解を深めるために有効な方法であると考えられます。
具体的な例を挙げることによって、禅の教えが、私たちの日常生活や経験とどのように関わっているかを理解することができます。また、抽象論を去ることで、禅の教えが、単なる理論ではなく、私たちの生き方に具体的な影響を与えるものであることを実感することができます。
具体的な例としては、以下のようなものが挙げられます。
坐禅は、禅の修行の基本となるものです。坐禅によって、私たちは、自分の心を静め、現実をありのままに見る力を養うことができます。
公案は、禅問答とも呼ばれ、一見すると意味不明な言葉や問いかけです。公案を通して、私たちは、自分の常識や固定観念を問い直し、新しい視点を得ることができます。
日常生活における禅の教えの実践は、禅の教えを、私たちの日常生活の中に取り入れていくものです。例えば、あるがままに物事を受け入れる、他者を思いやる、感謝の気持ちを持つ、といったことが、禅の教えに基づく生き方であると言えるでしょう。
このような具体的な例を挙げながら、禅の理解を深めていきたいと思います。