悟りの証明

残日録

悟りの証明(59)

鳴らぬ前の鐘の音を聞け」

「隻手の音声を聞け」

「父母未生以前の面目は如何」

 

これからしばらく禅の「公案」について考えてみたいと思います。「公案」は悟りを得た者(覚者)であれば簡単に解けますが、そうでない場合は全く意味不明で、分別(思量=考えること)出来ません。「公案」は多様ですが、その目的は、何れも「無意識の意識」「無分別の分別」「無知の知」「無作の作」「無為の為」等が現成する「意識の現場」である「三昧」「一次的意識」の存在を知らしめ、その意義の理解を促し、広く世に知らしめることにあります。

 

一僧 「兀兀地 思量什麼。」(不動の姿勢で何を考えているか)

薬山 「思量箇不思量底。」 (この思量を絶したものを思量しているのだ)

一僧 「不思量底、如何思量」 (考えられないものをどうして考えるというのか)

薬山 「非思量」(所謂思量ではない)

 

「思量箇不思量底。」とは「無意識の意識」「無分別の分別」「無知の知」を意味しています、つまり、考えられないものを考える、無意識を意識する、無分別を分別する、無知を知ると言うことを意味しています。考えられないものを考えるには「体験」するしかありません。一般的な意味での「体験」は「体験を反省したもの」「体験を思惟したもの」で、体験そのものではありません。厳密な意味での「体験」は、これまで述べてきたように「三昧」であり、「一次的意識」であり、「現在意識」です。

 

道元禅師はこの「三昧」を私たちの「赤裸々な心」「ありのままの心」「ありのままの意識」として「赤心」と言い、私たちの心(意識)の動きは、「赤心片々」であると言っています。「赤心片々」とは赤心(三昧)は片々として動く、「非連続の連続」(西田幾多郎の表現)であるという意味です。私たちの意識は、「三昧(一次的意識)」→「普通の意識(二次的意識)」→「三昧(一次的意識)」というように交互に動いていきます。しかし私たちは「三昧」「赤心」「一次的意識」の存在に全く気が付いていないのです、「日に用いて知らず」なのです。道元禅師は、「三昧」が片々としていることを「前後際断」とも言っています。

 

「しるべし、 薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへど も、前後際断せり。」(『現状公案』)

 

「前後際断」とは「三昧」の有り様を表したもので、一つの三昧には当然その前後(始まりと終わり)がありますが、その三昧の前後には二次的意識があり、その三昧は個立・孤立しているという意味にります。三昧には一瞬の三昧から、座禅のような数十分の三昧があります。道元禅師は座禅を「王三昧」といって「只管打座」(ひたすら座禅に邁進する)に努めることを最上の仏道修行としました。

 

「三昧を知る」ことが悟りなので、仏道修行は「三昧を知る」ことに尽きます。私たちが何かに無我夢中になるとき、そこに三昧があります。「無我」であったり、「忘我」であったり、「没我」であったり、要するに我が無いときに三昧が現成します。「三昧」に於いては、我はないにもかかわらず意識・認識があります。一体、この意識・認識は誰のものなのかということになりますが、それこそが「仏」ということになります。しかしここで重要なことは、仏という存在が意識したり認識すると考えてはならないということです。意識したり認識するその「ハタラキ」を仏と名付けているのです。仏がハタラクのではなく、ハタラクことが仏なのです。

 

一般的な意味に於いて、認識する、思量する、思惟する、知る、判断するということは「反省」と言うことを意味します。私たちが考える時、何かを考えます、つまり考えるという「作用」に対して、考えられる「対象」が必要です。この対象は何処からか来るかといえば、「三昧の反省」からということになります。つまり、三昧を反省することによって対象を得て考えているのです。

 

西田幾多郎は私たちの「知る」「判断する」と言うこと、すなわち私たちの知を次のように三つに分類しています。

 

1、直観=直覚

主客が未だ分かれない、知るものと知られるものとが一つである、現実そのままの、不断進行の意識である。

2、反省=思惟

体験を反省して比較し判断する。ベルグソンの純粋持続を同時存在の形に直して見ることである、時間を空間の形に直して見ることである。 

3、自覚=知的直観

自己が自己の作用を対象として、これを反省すると共に、このように反省すると言うことが直に自己発展の作用である、かくして無限に進むのである。所謂フィヒテの「事行」。

 

悟りは三昧に於いて自ずとハタライテいる3の「知的直観」によって「動的具体的全体」としての現実・事実を知る能力である「般若」の存在を「体験的に知る」ということになります。「般若」が「動的具体的全体」すなわち現実そのものを知る能力に対して、2の反省=思惟は「動的具体的全体」である三昧・現実を静的に、抽象的に、部分的に知る能力と言うことが出来ます。

 

「道得也三十棒道不得也三十棒」(言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒)

 

「言っても言えなくても警策で何度も打つ」ということで、「一体どうすればいいの」ということになりますが、言うということは三昧を反省(思惟)しているので、そこには既に現実・事実はありませんし、言えないということはそこには何の認識もないということになり、何れもダメだということになります。現実・事実というものは「当事者」にしかわからないものですが、実のところ、当事者ですらわからないというのが一般です。(つづく)