悟りの証明

残日録

悟りの証明(70)

仏教を深く知ることで欧米思想やリベラル思想の誤りや偏向が判然としてきます。例えば、リベラルのバイブル的な書『私の戦争論』で吉本隆明に次のように述べています。

 

「個人+個人+個人+・・・・といった個人の総和が公ということであってね。個人の集まりが公を作るのです。個人と公は対立関係でもないし、個人を超えて公があるということでもありません。個人が三人集まったとき、はじめて集団や社会というものが発生します。つまり、二人だけでは集団や社会が発生しないわけです、原則で言えば、三人以上集まって発生した集団や社会の中で生じる利害関係をどう調整するかということから、「公」の問題がでてくるのです。それが「公」の原型なんです。別に個人を超えて公があるわけじゃありません。」(『私の戦争論』50ページ)

 

マルクスの影響を受けた吉本ですから、その言説は、当然、上記のような「唯物論」「機械論」となります。社会契約説の思想家たち(ホッブス・ロック・ルソー)も個人が集まって社会が出来ると考えました。これは物質はアトムが集まって出来ていると考える考え方です。社会は個人の集合団体と考えるのですが、私たち個人はそうして出来ているのでもなく、社会もそうではありません。私たちは、ある時突然、真空の中に生まれ出るのではありません、歴史の中に、社会の中に、文化の中に生まれ出るのです。社会が私たちにアイデンティティを与えるんです。私たちは親を選べません、社会を選べません、国家を選べません。私たちは生まれた時に既に基礎的アイデンティティを与えられているのです。

 

リベラルは「社会は個人のためにある」「国家は国民のためにある」と言います、全体主義者は「個人は社会のためにある」「国民は国家のためにある」と考えます。仏教は「社会は個人のためにあり、個人は社会のためにある」「国家は国民のためにあり、国民は国家のためにある」と考えます。これは矛盾ですが、この矛盾のところに個人と社会、国民と国家があると考えます。この論理が仏教の「即非の論理」です。「即」は自己同一を意味し、「非」は絶対の矛盾を意味します。西田幾多郎はこれを「絶対矛盾的自己同一」と表現しています。

 

即非の論理」において、個人とは「私は私であって私ではない」、私であるということと私でないということは矛盾ですが、この矛盾こそが私なのだ、私とは矛盾した存在なのだということになります。「即非の論理」は「三昧」「純粋経験」「一次的意識」に於いて成り立つ論理であり、「動的具体的全体の論理」ということが出来ます。一方、欧米の論理、所謂「普通の論理」は、「三昧の反省」「純粋経験の反省」「二次的意識」すなわち「思惟」によって発展する「静的抽象的部分の論理」ということができます。私たちが「無我夢中」「没我」になって何事かに没入することを「三昧」といいます。三昧を経験しているのは我の筈ですが我は存在しない、私であって私ではないという「絶対矛盾的自己同一」が現成します、これが所謂「色即空」ということになります。仏教の立場は「三昧」であり、その「三昧の立場」から、私ということだけではなく、すべてのものごとを「色即空」と捉えます。花は花にあらず故に花である、月は月にあらず故に月であるということになります。「三昧」に於いては主観と客観が合一し、一体であり、主観と客観が未分なので、「主観即客観」ということになります。

 

「所謂論理」「欧米の論理」「普通の論理」は「客観的論理」であり、「仏教の論理」「即非の論理」は「主観即客観の論理」「主客未分の論理」ということが出来ます。欧米の論理は「客観」すなわち「認識の対象界」の論理で、「認識の作用」である私たちの主観は「認識対象界」の中には含まれていません。つまり、認識する私たち(作用)と認識される世界(対象)は乖離し、対立しているのです。一方「仏教の論理」「即非の論理」では主観と客観が一つになって、一つの世界を作っているのです。上記の吉本の立場、欧米の論理の立場では、個人と社会は対立しており、個人は社会の中には存在していないのです。一方、仏教の論理の方は、個人は社会の中にあります。

 

例えば、私たちは、「私は散歩しているという事実」と「私は散歩していると考える」ことの違いを峻別することが出来ます、「事実としての散歩」と「考えとしての散歩」の違いは明らかです。事実としての散歩に於いて、私たちは地を蹴り腕を振り呼吸をするといった「行為」に及びます。「行為する私」は動き行く風景を見、風を感じ、気温を感じ、香りを感じます。まさにこれこそが「現実」であり「事実」なのです、すなわち「動的具体的全体」です。現実としての私たちは自然の中、社会の中、文化の中で「行為」をしているのです。仏教において「行為」は「行」といってこのような特別な意味があります。

 

禅の公案に『説似一物即不中』というのがあります。

 

慧能「甚麼の処より来たる――何処から来た」
懐譲「嵩山より来たる――嵩山から来ました」
慧能「甚麼物か恁麼に来たる―― 一体何物がそのように来たのか」

 

この問いは「時と共にやって来るものは何か」つまり「現実・事実(現実の出来事)とは何か」というものですが、懐譲はこの問いに答えることが出来ず、8年間の苦行の末に「説似一物即不中」と答えることが出来ました。「説かれたものはそのものに似てるとしてもそれは当を得たものではない」「説かれたものは似て非なるものである」と答えたのです。現実・事実とは今現在の「動的具体的全体」ですが、この現実・事実を説くということは現実・事実を思惟するということです。現実・事実を思惟するには、現実・事実を反省しなければなりませんが、反省された現実・事実は既に過去であり、静止しており、抽象的であり、現実・事実とは似て非なる物です、「静的抽象的部分」です。「欧米の論理」「普通の論理」は現実・事実の「静的抽象的部分」である思惟の対象界の論理なのです。

 

真の個人とは「考えられた私」ではなく「行為する私」です。真の社会とは「行為する私」を包み込んでいる人為的環境です。この人為的環境は歴史的に作られて来たもので、いわば私たち日本民族の作品のようなものです。私たちはこの人為的環境である社会環境と自然環境という二重の環境の中で行為をしています。私たちにとって直接的で身近な環境は社会環境です。社会環境には有形・無形がありますが、何れも主観と客観が一体(主観の反映としての客観)となったものとして歴史的に発展してきたもので、広義の文化ということも出来ますす。社会環境は、「自らが作ったものが環境となって自らを作る」(西田幾多郎の表現)ということで、ある意味では「自縄自縛」的なところがあります。例えば、動物が巣を作るということと人間が家を建てるということとはその意味が全然違います。動物の巣はその動物の体の延長に過ぎませんが、人間の家は人間から客観的に分離独立して、かえって人間を制約します。つまり、新築の家によって行為する私は制約を受けます。また、私たちは法律を作ることによって法律に縛られます。

 

今年、2019年は日本にとって元号が変わる年です。奇しくも期を同じくして国際社会は大きく変わろうとしています。これまで国際社会を席巻してきた欧米の価値観が揺らぎはじめています。この状態を放置すると激動と混沌が待っています。民主主義、グローバリズムナショナリズムポピュリズム、一国主義、核兵器、人権、差別、移民・難民、原子力発電、慰安婦、徴用工、等々の国際社会の問題の解決には、行き詰まった欧米の論理・欧米の価値観だけでは対応できないところに来ています。国際社会には東洋と西洋という価値観の異なる二つの潮流がありますが、これからの私たちに求められているものは、この二つの潮流を遡って、その源流を明らかにすることだと思います。(つづく)