悟りの証明

残日録

悟りの証明(111)

悟りの証明(108)において、「仏教・禅は「言葉」「言語」「概念」「論理的思惟」「分別」、要するに「二次的意識」を一旦否定します。」と書きましが、同じように、論理的思考を否定する著書『日本人は論理的でなくていい』が出版されていることを知り、早速購入して読んでみました。著者である山本尚氏は禅に関心がおありのようで、内容は概ね納得いくものですが、残念ながら、主張の根拠が十分には明らかにされておらず「フィーリング的主張」に終わっているのが残念です。

 

普通、私たちが世界と思っているものは「現実」「一次的意識」「動的具体的全体」「純粋体験」を対象として反省によって得られた「静的抽象的部分」の記憶の集積であり、「過去の記憶の世界」なのです。私たちの倒錯は、この過去の記憶の世界から「現在」「現実」「一次的意識」を規定しようとするのです。つまり、現実を「言葉」「言語」「概念」「論理的思惟」「分別」によって規定しようとするのです。「一次的意識」に由来する「二次的意識」が逆に「一次的意識」規定しようとするのです。従って、「言葉」「言語」「概念」「論理的思惟」「分別」を否定しない限り「現実」に直に接することができないのです。

 

親鸞悪人正機説善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」の真意は、仏教に入るためには、全くの無分別、非論理を受け入れて、「信」から入りなさいと説いているのです。自力の仏教の仏道は教(仏典や師から学ぶ)と行(いわゆる修行)ですが、親鸞浄土真宗は「他力」の仏教で、「教・行・信」を信奉します。「信」は理屈無用であり「論理無用」であり、論理無用であることを受け入れることが「信」なのです。禅は自力の仏教ですが、公案に「橋は流れて水は流れず」というのがあります。これは「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」と全く同じで、ガツンと一発、非論理(無分別)を突きつけているのです。

 

科学的発明発見は「仮説」から始まる場合と実験による偶然や日常的偶然よる場合等がありますが、「仮説」はどこから来るかといえば、論理的思惟からではなく、自覚(=事行≠直覚・直観)(悟りの証明74参照)から来るものです。自覚によって物事の「動的具体的全体」を把握し、その「動的具体的全体」を分析することが論理的思惟ということになります。科学的推論はその前提として「自覚」による確信がなければなりません。いずれにしても論理的思惟は二次的なものなので、『日本人は論理的でなくていい』のです。

 

芸術(短歌)も科学も、過去の記憶の世界からは何も新しいものは生まれません。現実に直接接し、現実を直接知る・体験する・自覚することによってのみ新しい世界に入り、発明発見が可能になります。  #日本人は論理的でなくていい