悟りの証明(66)
『百尺竿頭進一歩』〔百尺竿頭に一歩を進む)
これは長沙景岑〔唐代の禅僧)の次の偈に由来します。
「百尺竿頭不動人、雖然得入未為真。百尺竿頭須進歩、十方世界是全身。」
〔百尺竿頭不動の人、然も得入すると雖も未だ真となさず。百尺竿頭すべからく歩を進べし、十方世界これ全身。)
百尺竿頭でとどまっている人は、絶体無〔空)を体験したといっても未だ悟りを得ていない。百尺竿頭を更に一歩進み出れば、そこには全世界〔宇宙)があり、それが私たちの身そのものである。
仏道修行は「色→空→色即空」と進んでいきますが、空のとどまってはいけない、「色即空」に達しなければならない、色即空に達すれば、全世界〔宇宙)が私たちの身体そのものであるということがわかります。
西洋の哲学・思想では精神と自然〔私と世界〕、心と物とが分かれたままで、未だに、両者は統一されてはいません。ヘーゲルは精神の方面に、マルクスは物質〔自然)の方面に、それぞれ観念論や唯物論を展開し、一元化しようとしましたが両者を統一することは出来ませんでした。
一僧 「如何転得山河国土帰自己去。」
〔どうしたら山河国土を転じて、自己に帰せしめることが出来ようか)
長沙 「如何転得自己成山河国土去。」
(どうしたら自己を転じて山河国土にすることができようか)
一僧 「不会」
〔わかりません)
長沙 「湖南城下好養民。米賤柴多足四隣。」
〔湖南の城下は住みよい、米は安く薪は豊富で、いたるところ不足なし。)
自己に帰せしめようとしたら観念論に、自然〔山河国土)に帰せしめようとしたら唯物論になってしまいます。長沙の「湖南城下好養民。米賤柴多足四隣。」には精神〔民)と自然〔湖南城下)とが対立矛盾することなく、「相即相入」して、自然の恵みを享受する人々の日常が描かれていて、精神と自然とが統一されていることが見事に表現されています。精神は主観であり自然は客観ですが、精神即自然、主観即客観、すなわち「主客合一」のところに真実在があります。長沙はこの「精神即自然」「主観即客観」「主客合一」を「湖南城下好養民。米賤柴多足四隣。」という平易な日常の何気ない言葉で明確に表現しているのです。
「精神即自然」「心即物」「主観即客観」等を禅では「即非」といい、西田幾多郎は「絶体矛盾的自己同一」と言っています。絶体に矛盾するものが同一であるとは全くの「無分別」ということを意味しています。仏教はまさに「無分別」を説く宗教ということが出来ます。
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
「橋は流れて水は流れず」
「東山水上行」
仏教は私たちにこのような「無分別」を突きつけるのです。心〔精神)と身〔物質)に分裂してしまった私たちに、本来の、真実在としての私たちを取り戻すために。(つづく)