悟りの証明

残日録

悟りの証明(60)

「善人なほもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」(『悪人正機説』)

「橋は流れて水は流れず」

「東山水上行」

 

仏教のこのような主張には、私たちの「三昧の反省」「現在意識の反省」を前提とした論理そのものを否定し、仏教の論理である『即非の論理』に導こうとする意図があります。善人は善人ではない、だから善人なのだ。悪人は悪人ではない、だから悪人なのだ。橋は橋ではない、水は水ではない、だから橋であり水なのだ。善人即非善人、悪人即非悪人、橋即非橋、水即非水、等の「即非」とは、「即」が自己同一という意味であり、「非」が矛盾ということから「矛盾の自己同一」を意味しています。西田幾多郎はこれを「絶体矛盾的自己同一」と表現しています。

 

即非の論理』を理解するには、人間意識の原点であり根本である「三昧」という「意識の現場」に立ち戻らなければなりません。「三昧」に於いては未だ私たちの「普段の意識」である「二次的意識」「分別意識」は働いていません。「分別意識」は三昧の「動的具体的全体」である「現実」そのものを反省して「静的抽象的部分」とすることで意識の対象を得て成立する意識です。三昧に於いて働いている意識は「無分別の意識」「無意識の意識」で、この無分別の意識が分別をするところに「正受」が実現します。この「無分別の分別」のことを「般若」といいます。「正受」とは「動的具体的全体」である現実をそのまま正しく受ける(認識する)という意味です。例えば、私たちがサッカーを観戦している時や音楽に没入して我を忘れている時、我の意識は完全に無くなり三昧の境に入り、ふと我に返るまで無我になります。無我になりますが意識がないのかと言えば却って集中したクリアーな「覚醒した意識」がある筈です。この意識が、「無意識の意識」であり、この意識の状態が「三昧」であり、「動的具体的全体」すなわち現実・事実そのものを映す「正受」なのです。

 

「三昧」における自然のハタラキである認識作用(仏性)すなわち「般若」(知的直観)を体験(見性)することなく、言語・概念による論理的思惟に執着する私たちは、『般若心経』が指摘するように「一切顚倒夢想」の世界で生きているようなものです。私たちが知るべきは、物事それ自体であって、物事の解釈や説明ではないはずです。

 

一僧「如何なるか是れ道。」

投子「道。」

一僧「如何なるか仏。」

投子「仏。」

 

一僧「如何なるか是れ曹源の一滴水。」

浄慧「是れ曹源の一滴水。」

 

「覚者」は決してクダクダと説明や解釈をすることはありません。ただ「三昧」を直接に指し示すだけです。これが「直指人心」です。(つづく)