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悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(37)

公案に『風性常住無處不周』(風性は常住にして処として周らざる無なし)

というのがあります。これは宝徹禅師と一僧との問答に由来します。

 

宝徹禅師が暑気払いに扇を使っていると、ある僧がやって来て、

一僧「仏教では『風性常住無處不周』といっていますが、和尚は何故ことさ

   らに扇を使うのですか」

宝徹「お前は『風性常住』ということは知っているようだが、『無処不周』という

   道理が解っていない」

一僧「それでは『無処不周』とはどういう意味ですか」

宝徹は何も言わずに、ただ扇を使っているだけだった。

 

この一僧はなかなかの痴れ者で、この問の本意は「風性」に引っかけて、実は、「仏性」について次のような批判をしているのです。

 

仏教では、人間は生まれながらに誰でも仏性を有しているから、その身そのままで仏なのだと説いていますが、それならばなぜ、「悟りだ、悟りだ」といって、悟りを求めて厳しい修行をしているのか。

 

一僧のこの問は、まさに仏教の根本にかかわる問なのです。この問に対し宝徹は「風は扇を『使う』ことによって『風たらしめる』ものだ」、「仏性は『使う』ことによって『仏性たらしめる』ものだ」と明確に「直指」しているのです。

 

人間だけではなく動物にも「仏性」すなわち「無我のハタラキ」はあります、「無意識の意識作用」はあります。しかし、人間は我がある故に、「意識作用」となり、「無意識の意識作用」を意識できません。従って修行の初歩は、先ず、三昧において自ずと、「自然(じねん≠しぜん)」に、あるがままにハタライテイル「無我のハタラキ」を証することが必要になります。「無我のハタラキ」を証するには「ハタラキがハタラキ自身を自知する」という自己同一知すなわち「般若」が必要となり、悟りが必要となります。そして更に、「無我のハタラキ」を「意識」した上で、「無我のハタラキ」「無意識の意識作用」を生かして使う、すなわち「活用する」という立場に立つことになります。これこそ正に仏教の究極の立場なのです。

 

自然(じねん≠しぜん)をただ自然と認識するにとどまらず「使然」という立場に立って、自然を使いこなすところに仏教の仏教たる所以があります。

 

人間には果たして「自由」というものがあるのか、という問は倫理上の根本問題です。もし私たちに自由がないということになると、私たちの一切の行為は自然必然の行為と言うことになって、いかなる悪行に対しても、その罪を問うことは出来ません。動物は、自然必然の法則に従って生きるのみで、罪もなく自由もありません。人間もまた動物である以上、自然必然の法則に従っている筈ですから自由があるとはいえません。この厳然たる事実を如何に乗り越えて「自由」を得るか、と言う問に対して、仏教が出した答えは『必然的自由』というものです。『必然的自由』とはまったく矛盾した概念ですが、その真意は、必然を必然として「使いこなす」ということです。要するに「自然」は『使然』とならねばならないということになります。

 

私たちには常に意識と交互に「無意識の意識」がハタライテいます、つまり、意識→無意識の意識→意識→無意識の意識というように「不連続の連続」としてハタライテいます。道元禅師はこの「無意識の意識」のことを「赤心」(赤裸々な意識)」といい、このように交互にハタラク「赤心」を「赤心片々」と表現し、また「前後際断」とも言っています。仏教では、この「片々」としてうごく赤心を意識上に持ち来たり、意識化して、「自由」に使いこなすことを『仏行』といい、略して『行』ともいいます。(つづく)