悟りの証明

残日録

悟りの証明(50)

日本文化を論じるとき、三島由紀夫の『文化防衛論』を看過することは出来ません。

「日本文化から、その静態のみを引き出して、動態を無視することは適切ではない。日本文化は、行動様式自体を芸術作品化する特殊な伝統を持っている。武道その他のマーシャル・アートが茶道や華道の、短い時間のあいだ生起し継続し消失する作品形態と同様のジャンルに属していることは日本の特色である。武士道は、このような、倫理の美化、あるいは美の倫理化の体系であり、生活と芸術の一致である。能や歌舞伎に発する芸能の型の重視は、伝承のための手がかりをはじめから用意しているが、その手がかり自体が、自由な創造主体を刺激するフォルムなのである。フォルムがフォルムを呼び、フォルムがたえず自由を喚起するのが、日本の芸能の特色であり、一見もっとも自由なジャンルの如く見える近代小説においても、自然主義以来、そのときどきの、小説的フォルムの形成に払われた努力は、無意識ながら、思想形成に払われた努力に数倍している。」(『文化防衛論』P43)

 

文化には有形文化と無形文化とがありますが、日本の文化は無形文化すなわち行為・行動・動作・技術そのものを芸術化する、「物」よりも「事」を芸術作品化します。日本は「技術大国」であると自認する根拠もここにあります。造られた物よりも造る課程、存在(ザイン=あるもの)よりも行為、そしてその行為はやがて「当為(ゾルレン=あるべきもの)」へと発展し「倫理」となる、というのが三島の深い洞察です。

 

仏教は、「教」から「道」すなわち「行・実践・行為」へと修行の重心を移していきます(『正法眼蔵』・「現世公案の巻」)、すなわち「教行証」として、仏典の教から、行・三昧を学び、無我の実践・無我の行為によって仏を証する実践の生活となります。この仏教の「仏道=道」は、「無我の実践」「無我の行動」として、700年間、武士の時代の「生の根底」を支える「当為」であり、倫理でした。「仏道」は「武士道」を支え「武道」の発展を促したばかりではなく、あらゆる芸能、生活全般に浸透し、日常を「道化」しました。

 

私たちは誰でも、私たちが存在し、その存在としての私たちが意識を持って意識的に行動していると思っています、すなわち「二次的意識」のみで生活していると思い込んでいます。しかし事実は、「一次的意識」と「二次的意識」とは交互に働くもので、「一次的意識」の反省によって「二次的意識」が継起します。仏教は、三昧すなわち「一次的意識」を宇宙(自然)のハタラキの人間への降臨とみなして、これを「仏性」と呼び、この仏性を活用(使然)するところにその本旨があります。我もなく意識もせずに自ずとハタラク(自然にハタラク)こと、「無意識の意識」「無作の作」で行動することを「仏行」「行」としているのです。私たちは目的を達成するために行動します。目的を確実に達成するための行動は、目的に反れることなく、無駄がなく、効果的で、理にかなったものでなくてはなりません。行動が理にかなうとは、行動が「合理的」であるということであり、行動が「必然的」であるということであり、行動が人為的ではなく、意識的ではなく、自然の法に則っていること、すなわち行動が法則であることを意味します。行動の法則すなわち「作の法」つまり「作法」の意味がここにあります。「作法」とは「三昧」「一次的意識」において自ずとハタラク「無作の作」なのです。

 

三島の上記「フォルム」は、「行動の型」「動きの型」を意味しています。「フォルム」は仏語で、英語では「フォーム」ですが、「投球フォーム」とか「バッテイング・フォーム」という場合の「フォーム」を意味します。「作法」には「フォルム」すなわち「行動の型」、略して「型」というものがあります。武道はもとより伝統芸能には必ず「型」というものがります。「型」には、諸道諸芸の創始者や先駆者が長年の鍛錬によって体得した「作法」としての行動の模範という意味があります。(つづく)

悟りの証明(49)

オバマ大統領が来日して、広島で大演説を行い、「核廃絶・核不拡散」を訴えました。日本も国際社会も「核廃絶・核不拡散」は殆ど不可能(核保有国の自己欺瞞・自己矛盾・自己都合)と知りつつ、努力することには何ら異存はないということで、このパフォーマンスを概ね歓迎したようです。

 

このイベントを批判し騒ぎ立てる必要はありません。しかし、果たして、ただ「歓迎」だけで終わっていいのでしょうか。「敗戦国だから」「侵略国だから」と思い込んで、ただ俯いてこのイベントを甘受するだけでいいのでしょうか。もしも、私たちに、私たちの先祖や子孫を思いやる心があり、先の大戦の反省を踏まえて、少しでも国際社会に貢献するという毅然とした強い意志があるならば、これを機に、肝に銘じておかなければならないことがあります。それは、私たちが国際社会に『喧嘩両成敗』という倫理の法を「啓蒙」しなければならないという使命です。

 

アメリカの世論は、オバマ大統領の核廃絶演説を目的とした広島訪問自体には反対しないが、「謝罪」はしないというものでした。私たち日本人は、中国や韓国のように謝罪を要求しません。なぜならば、謝罪は要求するものではなく、当事者が真に謝罪の心があるかどうかが問題だからです。私たちがなすべき事は、アメリカ人が進んで心の底から謝罪できるように『喧嘩両成敗』法をもって啓蒙し、民度を上げてやることです。

 

アメリカ人は、先の戦争は自衛戦争で正しかった(正戦論)、日本は宣戦布告なしに真珠湾を先制攻撃し、アメリカを侵略した。対して、日本も、兵糧攻めにあっていたので自衛戦争であった、宣戦布告をしたが不手際があり間に合わなかった、などと互いに主張して、静かな反目が未だに続いています。しかし、このような両者の「理非主張」は『喧嘩両成敗』法の下では一切許されません。この法の下では、「侵略という概念は定まっていない」のではなく、侵略などという概念そのものが存在しないのです。攻撃に対して応戦した以上、それは戦争以外の何ものでもないのです。

 

「喧嘩両成敗」は単に喧嘩だけを禁じているのではありません、喧嘩の原因となる「口論」をも禁じているのです。赤穂事件(元禄14年・1701年)は、吉良上野介が朝廷との年賀儀式儀礼を伝授する要職にありながら、浅野内匠頭に適切な指導をしなかったことによって儀式儀礼の進行に齟齬をきたしたことに端を発しています。当時の幕府は、「殿中狼藉」の廉で、内匠頭だけに切腹を命じましたが、江戸庶民は「無分別の分別」「素朴な平衡感覚」で、その措置に納得しませんでした。当時の庶民達は、殿中狼藉は「喧嘩」ではないが「口論」が原因であったことに違いない、「殿中狼藉」という罪状は時の幕府が勝手に決めたことであり、『喧嘩両成敗』は天下の法である筈だ、なぜ吉良上野介にも罰を与えないのか、「片落ち(片成敗)」ではないのか、ということで赤穂藩士に同情したのです。元禄の庶民は、言論(口論)は時には暴力以上にたちが悪いということを「無分別の分別」として体得していたのです。

 

日本は、「東京裁判」において、連合国の「自力救済」と「勝てば官軍」という論理をもって、<事後法>である「平和に対する罪」「戦争犯罪」「人道に対する罪」という三つの罪で裁かれ、「侵略国」という汚名を着せられ、未だに中国や韓国のプロパガンダに悩まされています。一方、アメリカ合衆国 、イギリス、ソビエト連邦中華民国、フランス等の連合国は、罪を問われることすらなく、謝罪することなく、一切の賠償もなく、「片落ち(片成敗)」を当然のこととしてきました。戦後70年、連合国は相変わらずの「自力救済」と「勝てば官軍」の論理で、50件以上の戦争・紛争・内戦に関与し、「自国の利益」のために、他国を蹂躙してきたのです。戦後の日本は、自国はもとより国際社会のために、一体何をしてきたのでしょうか。日米安保反対運動やベトナム反戦運動はありましたが、それらは何れも共産主義という借り物のファッション思想をもって、アメリカ資本主義と対立したに過ぎず、日本にとっては何らの必然性もありませんでした。日本の戦後70年、一度たりとも『喧嘩両成敗』という倫理の法を掲げた「必然的な運動」はありませんでした。

 

『喧嘩両成敗』法は「連座制」を謳っています。日本への原爆投下はアメリカだけの責任ではありません、その他の連合国も連帯して責任を負わなければなりません。

連合国は、テロに悩まされ、怯えています。それは、「半落ち(片成敗)」を繰り返してきた必然の報いとしか言いようがありません。

 

アメリカの自国中心主義、中国の膨張主義、ロシアのナショナリズム北朝鮮核武装、ヨーロッパの難民問題、EUの不安定性、ISのテロ等々、国際社会は明らかに不安定な方向に向かっています。このような国際情勢の中にあって、『喧嘩両成敗』という倫理の法が日本を支えてくれる筈ですし、『喧嘩両成敗』をもって国際社会を「啓蒙」することが日本の使命なのです。

 

(つづく)

 

 

悟りの証明(47)

倫理の悪の方面を深く掘り下げていくと、巨悪とは何かということになり、それは戦争以外にないということになります。

 

私たちは先の戦争に敗れ、自虐史観自尊史観、左と右に国論を二分しながら不毛の「相殺議論」を70年もの長きにわたって継続し、未だに戦後は終わることなく、悶々とした出口なき暗闇を彷徨っています。私たちがこのようなアポリアに直面したとき、尋ねるべきは、ある特定の「借り物の外来思想」ではなく、<慣習法>ということになります。<慣習法>には、私たちの先祖達が長い時間をかけて試行錯誤しながら、具体的な事件に即した現実的な叡智を見ることができます。

 

<慣習法>の由来を突き詰めていけば、宗教(神道と仏教)と言語(日本語)いうことになります。日本人は無宗教であると自他共に認めていますが、特定の宗教が意識されている間は未だ宗教とは言えません、宗教が空気のようなものになり、「無意識の意識」として自ずとハタラクようになって始めて宗教が根付いているということができます。日本人は十分に宗教的な国民です。また、仏教は漢文・漢字を伴って日本に伝来し、<慣習法>のもう一つの由来である「日本語」の礎となりました。漢文・漢字によってもたらされた高度な抽象概念や形而上学的概念は、日本人の流動的で豊かな観念を固定し、深く思惟し、普遍化する上で不可欠なものでした。

 

それでは、一体、私たちが未だに引きずっている不毛でオタク的な戦後の議論に終止符を打ち、毅然として国際社会に対応するための拠り所となる<日本の慣習法>とは何か、それは、『喧嘩両成敗』という「戦の法」以外にはありません。

 

『喧嘩両成敗式目』

第一 天下泰平に背く喧嘩口論は両成敗とする

第二 喧嘩口論の裁定者は客観的第三者でなければならない

第三 喧嘩口論の当事者双方はその理非を問わず罰を受けねばならない

第四 喧嘩口論の当事者双方はその罪に相当する罰を受けねばならない

第五 喧嘩口論の当事者に加担した者も同様に罰を受けねばならない

第六 斯くして報復の連鎖は断たねばならない

                                                     (筆者まとめ)

 

この式目を一見すると、次のような特徴を読み取ることができます。

 

1、戦争当事者の理非超越の論理 「即非の論理」=「「仏教の論理」

2、上位絶対権力と下位主権の是認

3、自力救済との決別

4、戦争の抑止

5、プロパガンダ競争の無意味化

6、戦争の早期解決

7、連座制

8、報復の抑止

 

この『喧嘩両成敗』の意義を、先ず、私たち日本人自身が理解し、そして、これを<理念法>として国際社会に流布することが出来たならば、次のようなメリットを享受することが期待出来ます。

 

1、国論二分相殺という戦後の超克(国内)

2、侵略国家日本汚名返上、名誉回復(国内)

3、国際社会における歴史問題の無意味化

4、国際社会平和化への貢献

5、日本の国際的地位向上

 

先ず戦前、私たちが真に反省すべきは、この『喧嘩両成敗』という倫理の法が、<慣習法>として存在していたにもかかわらず、一顧だにされることなく、先の大戦に踏み切ったことです。当時、この『喧嘩両成敗』を意識することが出来ていたならば、<自力救済>の愚かさを理解できたはずです。戦争回避のためのしかるべき努力が払われたはずです。

 

そして終戦、『東京裁判』が開廷され、連合国によって「自力救済」と「勝てば官軍」の論理によって、日本だけを被告として、<事後法>である「平和に対する罪」「戦争犯罪」「人道に対する罪」という三つの罪をもって日本を裁きました。そして、一方的に「侵略国日本」という烙印が押されました。それでも、日本はこれらの罪を認め罰を受け入れ、賠償を行い、謝罪は今日まで続いています。斯くして、<第一回>の「東京裁判」は終わったのです。この<第一回東京裁判>に異論を唱える向きもありますが、異論を唱えるということは「理非を問う」ということであり、『喧嘩両成敗』に異を唱えるということです。それでは『喧嘩両成敗』による<第二回東京裁判>には進むことはできません。

 

ヘランボ・ラル・グブタ(インド独立運動の指導者)

「極東軍事裁判、即ち東京裁判は、二十一世紀に入れば必ず多くのアジアの国々によって見直されるであろう。そして第二回東京裁判が実現する。その頃はアジアも良識を取り戻し、すべてが公正にして真理の法の前で平等に裁かれるだろう。・・・」(草開省三『インド独立秘話』)

 

<第二回東京裁判>とはいかなるものであるべきか、その一つの試みとして、2007年7月16日『原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島』(要検索)が開廷されましたが、この法廷には<喧嘩両成敗という理念>がありませんでした。結果的に、この法廷は国際社会に広く認知されることはありませんでした。

 

私たちが理念を実現しようとするとき、先ず、知らなければならないことは「過去と現在」です。過去と現在を踏まえながら一歩一歩進む以外に理念の実現はあり得ません。「革命」などという愚かな思想は「過去と現在」を破壊するだけです。過去と現在という歴史的必然を断つということは自らの生命を絶つということに他なりません。

 

「理念のために現実があるのではありません、現実があるから理念が必要なのです。」

 

もしも、『原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島』以前に、『喧嘩両成敗』の精神と概念が国際社会に広く認知されていたら、この法廷はある程度成功したかも知れません。しかし、このような民衆法廷はリベンジとみなされ、反発を買うだけです。

 

私たちがやらねばならないことは『喧嘩両成敗』の精神と概念の国際社会における周知徹底です。この周知徹底はさほど難しいことではありません。次のことを戦略的に行えば、5年もあれば十分です。

 

1、泉岳寺世界文化遺産に登録し、世界平和祈願のメッカとする。

2、ホームページを開設する。

3、『忠臣蔵』の書籍、映画、DVD、漫画、アニメ等を制作し配布する。

4、国際会議の会場には必ず、額縁入りの『喧嘩両成敗式目』を掲揚する。

 

<第二回東京裁判>は、ただ、『喧嘩両成敗の意義』を国際社会に伝え、理解を促すこと、それで十分なのです。

 

※『喧嘩両成敗』は絶対平和主義を理念としていますが、国際社会の現実は、絶対権力が不在であり、「自力救済」であり、「勝てば官軍」です。従って、憲法九条の第二項は改正されなければなりなせん。

 

(つづく)

悟りの証明(46)

「なぜ人を殺してはいけないの?」

 

この問いは、1997年8月15日、故筑紫哲也がキャスターを務めたテレビ番組『ニュース23』が企画・放映した「ぼくたちの戦争’97」という特集コーナーで、高校生たちが大人たちと討論する中、ある高校生がこの問いを投げかけ、さらに「自分は死刑になりたくないからという理由しか思い当たらない」のですが、と続けています。この生徒は大人からの本当の答えがほしかったのです、大人達に救いを求めていたのです。

 

しかし、キャスターの筑紫哲也はもとより、ゲストとして同席していた大江健三郎、その他の所謂知識人達も、誰一人、答えることができなかったのです。

 

同年、朝日新聞大江健三郎の「誇り、ユーモア、想像力」と題されたコメントが掲載されました。(朝日新聞 1997.11.30 朝刊)

 

「テレビの討論番組で、どうして人を殺してはいけないのかと若者が問いかけ、同席した知識人たちは直接、問いには答えなかった。(中略)私はむしろ、この質問に問題があると思う。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。そこにいた誰も、右往左往するばかりで、まともに答えられなかったのだ。あれだけの知識人がそろっているのに、子供の質問にすらまともに答えられないのかと、世間は嘲笑した。そのようにいう根拠を示せといわれるなら、私は戦時の幼少年時についての記憶や、知的な障害児と健常な子どもを育てた家庭での観察にたって知っていると答えたいなぜなら、性格の良し悪しとか、頭の鋭さとかは無関係に、子どもは幼いなりに固有の誇りを持っているから。。(中略)人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観にさからう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子どもは思っているだろう。こういう言葉こそ使わないにしても。そして人生の月日をかさねることは、最初の直観を経験によって充実させてゆくことだったと、大人ならばしみじみと思い当たる日があるものだ。」

 

これは、無慈悲に生徒をなじいるだけではなく、知識人としてはあるまじき「直観」を持ち出してくるとは、全く、人間失格であり、知識人失格と断罪ぜざるを得ません。

 

「なぜ人を殺してはいけないの?」という問を出した生徒は、一体、何を問うていたのでしょうか。この生徒がコトバに表せない本当の問は何だったのでしょうか。

この生徒は「自分は死刑になりたくないからという理由しか思い当たらない」ということを知っているのです。つまり、私たち「人間社会の秩序を維持」するために、「殺してはいけない」ということぐらいのことは知っていると主張した上で、この生徒は、人間の尊厳を賭けて、実存を賭けて、自分自身で「殺してはいけない」本源的な理由を知りたかったのです。言い換えれば、「主体なき理性」で単に知識として知るだけではなく、「主体ある理性」すなわち意志と感情を伴った全人格を賭して知りたかったのです。

 

この生徒の切なる問いに答えるには、「一体、私たちに自由はあるのか?」という根本的な問いに答えなければなりません。自由がないところに倫理は成立しません、自然必然の法則に従って生きるだけなら、善悪を問うことはできません。この自然のルール(自然の摂理)に加えて、社会のルール、人間のルールに従うこということになれば、そこには私たちの自由は全くありません。

 

仏教は「人間の自由」について、既に2500年前に単純明確に答えを出しています。

 

「私たちの自由とは、自然必然の法則を無視して勝手に生きることではない、生きられるはずもない、むしろ、自然必然の法則に則り、自らのものとして、積極的に自然必然を活用する、すなわち<使然>の立場に立てば自由である。」

 

「また、社会からの自由を求めるならば、<人知>を客観視し、<人知の専横>を許さないことである。知は真偽、情は美醜、意は善悪というそれぞれの領分かある。<人知>は分別知であり、相対知であり、<関係知>である。関係の中に住む以上自由はない。」

 

「善悪は<人知>の産物である。善も悪もない世界、それが三昧の世界である。三昧には<自然の知=無知の知>と意志と感情とがある。三昧とはただ物事に<感情移入>し、物事と一つになることである、物事と一致するとき、そこに「慈悲>愛」が現成する。慈悲あるところに悪がある筈がない。善悪に苦しむより、三昧を楽しむことである。」

 

現代の最大の問題は<知の情意に対する越権><主体なき理性の専横><知の全体主義>なのです。大江健三郎その他の所謂知識人の存在そのものが悪なのです。若者達はこの<知の全体主義>の中で圧死寸前なのです。若者達をこの息苦しい(生き苦しい)世界から救出するには、単純に<感情移入>の骨を伝授することです。<感情移入>とは決して知識ではなく、行為であり、行動であり、体験なのです。<感情移入>のあるところには決して悪はありません、倫理判断に迷うこともありません。若者をして、何事にも<感情移入>ができる自分に、自分自身が仕立て上げられるうように、私たちは大人は、無言で寄り添いながら、機会を与えればいいのです。

 

(つづく)

悟りの証明(45)

倫理を求めた吉本は、結局、自らの思想にも宗教にもその窮極的な答えを得ることなく逝ってしまいました。吉本は思想による倫理の追求に限界を感じ、親鸞(宗教)にその望みを託しましたが、結局、親鸞を理解することなく世を去りました。しかし、この講演のような『造悪論』を吹聴する吉本に対し、マスコミは「戦後思想の巨人」などといって絶賛しました。要するに、日本の知識人やジャーナリズムはこの程度なのです。

 

倫理について、仏教は、2559年前に、すでに明確に答えを出しています。それは、

 

「倫理は、情意が欠落した<人知>、すなわち<主体なき理性(人知)>によっては決して解き明かすことは出来ない。それは、<思いやり><感情移入>が現成する<三昧>において、般若という高次の知と意志と感情とによって、すなわち<主体ある理性(般若)>によって始めて解き明かされる。悪は<人知>故に起き、<人知>は<関係知>であり相対的であが故に、常に二者択一を迫り、立場の相違を生み出して争いとなる。般若は相反する絶対的な矛盾を統一する<即非><絶対矛盾的自己同一>の知であり、感情と意志は<人知>を否定し、<信>を可能にする。般若と感情と意志のあるところ、すなわち<無知の知><感情移入><思いやり>あるところには必ず「慈悲>愛」がり、悪を寄せ付けない。倫理の核心は、悪の抑止ではなく善(慈悲)の促進である。」

 

仏教の倫理に対する思想は単純明確に『諸悪莫作 衆善奉行』に尽きています。

「諸悪は作為であるから作(な)してはならない、諸善は仏行であるから行じ奉れ」

 

(つづく)

悟りの証明(44)

主知主義者である吉本は倫理というものを全く理解していません。この講演のような愚かな知を拡散すること自体が倫理に反する悪であることを認識していないのです。<真の倫理は倫理を否定する>ということ、<「人知」によって倫理を語ることが悪である>という認識が全くないのです。『悪人正機説』は倫理を説いているのではありません、倫理を拒絶しているのです。『悪人正機説』は「人知」によっては決して解くことが出来ないような仕掛けになっています、「人知」を拒絶しているのです。倫理を説かないことで真に倫理を説いているのです。一神教キリスト教ユダヤ教イスラム教)は倫理を説くことを宗としていますが、仏教一般、殆ど倫理は説いていません、倫理を説けば説くほど<向かえば背く>ということを知っていて、自らを戒めているのです。しかし、それでも倫理は説かなくてはならないという矛盾、そこに仏教の苦悩があり、本質があります。

 

説くということは、「人知に頼る」ということです、情意を無視し、情意を圧迫するということです、円満な知・情・意を具えた人格を否定するということです、情意が欠落した『主体なき理性』を育てるということです。「知識人」という存在自体が悪なのです、「事実の報道」よりも低次のコメント(意見)に終始するメデイアの存在そのものが悪なのです。<知の情意に対する越権><知の専横><知の全体主義>、それこそが現代社会の大問題なのです。

 

私たちが言語を駆使し論理的に思惟するとき、そこには無意識に「我の立場」があります。思惟するということは<我を立する>ということです、<我の立場>抜きに思惟=<人知>は成立しないのです。

 

私たちが倫理・道徳を語るとき、善悪を語るとき、無意識に悪は語りますが、善は語っていないのです、つまり、倫理の<積極的な意味>は語っていないのです。真の倫理には積極的な意味、積極的な側面がなければなりなせん。吉本は、この講演においてオウムの悪やアメリカの原爆投下の悪を語り、そのような巨悪に対するために「新しく大きな倫理の基準」が必要であるとは語っていますが、講演全体を通して善については何も語っていないのです。法律・規則・道徳・常識等を強化したところで息苦しく(生苦しく)なるだけです。むしろ、私たちが志向すべきはこれらの圧迫をすべて撤廃することです。

 

仏教は倫理の積極的な意味を説きます。<自由にして則を越えず>を説きます。私たちが物事に<思いをやる>とき、物事に<感情移入>するとき、すなわち<三昧にひたる>とき、そこには「物事との一致」(一つになること)、すなわち<愛>という意志と感情だけがあり、<人知>はありません。<愛>を阻むものは何もありません、全く自由です、そして<愛>あるところには決して悪はありません。親鸞の<信>は人知を拒否し、私たちに自由を保障し、意志と感情によって<ハタラク愛>を要求しているのです。

 

いかなる巨悪も私たち人間が犯すものです、私たち一人一人の一心に帰するものです。<思いやる>ということは概念ではありません、知識ではありません、<人知>で知ったからといって何の意味もありません。<思いやる>とは行為であり、行動であり、実践であり、<無我の行為>すなわち<仏行>なのです。

 

(つづく)