悟りの証明(62)
「三昧」には私たちの意識の秘密が隠されていますが、三昧の意識(一次的意識)と私たちの普通の意識(二次的意識)とを判然としておく必要があります。意識とは、何物かを「知る意識」で「認識」と同義と考えられます。認識を大別すると次のようになります。
1、直覚
私たちに先天的に具わっている感性の形式である時間・空間によって感官を通じて
得られた材料を知覚として纏め上げる
2、思惟
悟性作用の範疇(先天的基本概念・類概念)という先天的形式(先験的形式)によ
って感性の形式である時間と空間によって得られた材料を思惟して纏め上げる。思
惟は一種の構成作用で概念間の関係を定め統一する。
3、知的直観
三昧に於ける知情意の「作用を対象」とした作用、すなわち<作用の作用>で、全
自我の作用、全機のハタラキ(全機現)。
思惟と知的直観との根本的な相違は、思惟が反省によってその直前の過去となった意識作用の内容を対象として纏め上げて静的に統一する(統覚)のに対して、知的直観は直観の作用がその直観の作用自身を対象として纏め上げる「動的統一」という点にあります。従って前者は「静的抽象的部分」の認識であり、後者は「動的具体的全体」の認識ということになります。
この知的直観を直観することこそが所謂「悟り」ですが、禅宗ではこの知的直観を体験として直接的(「直指」)に伝えることを宗としています。「行即知」すなわち行うことが取りも直さず認識することであるということを直指するには、「行いを促す」以外にありません。
弟子「こちらに参りまして長くなりますが、今日まで何らの教えを頂いておりません
が。」
師匠「お前がここに来てからと言うもの、寸時を惜しんで教えているではないか。」
弟子「その教えとは何ですか。」
師匠「お前がお茶を持って来てくれる時、わしはそれを受け取るではないか。お前がお
辞儀をすれば、わしもお辞儀をするではないか。こんなあんばいに、朝から晩ま
でのべつに教えているではないか。」
師匠「食事はしたか?」
弟子「はい、終わりました。」
師匠「ならば、食器を洗うがよい。」
「行即知」である「知的直観」は決して知識としては教えることが出来ないので、禅の師匠は、弟子をして知的直観を実行させしめる、弟子をして知的直観をハタラカしめることによって「体得」させることに専念します。この体験による「体得」こそが「見性」すなわち「悟り」です。「見性」の性とは「本性」すなわち「仏性」のことで、「自然のハタラキ」のことです。しかし、「自然のハタラキ」とは言っても、思惟の対象としての「自然のハタラキ」ではないということ、考えられた「自然のハタラキ」ではないこと、すなわち「自然のハタラキは自然のハタラキではない、それが自然のハタラキである」という「即非の論理」を忘れてはなりません。「自然のハタラキ」(宇宙のハタラキ)である「ブラフマン」は私たち人間のハタラキ、すなわち「アートマン」として分有され、そのハタラキは統一と分化(発展)を繰り返しながら動いていきます。分化は意識の発展途上であり、統一は私たちの思惟や意志における統一、すなわち統覚を意味し、知の成立や意志の決行ということになります。
「喫茶去」(お茶でも飲んで行きなさい)
中国唐時代の禅僧趙州は、その晩年には、誰に何を問われても「喫茶去」という一言で済ましたと言われています。まさにここには究極の「直指」が歴然としています。(つづく) #悟り