悟りの証明

残日録

理性の害悪(4)

近代哲学の完成者と言われるヘーゲルの「理性」もまた、「全体主義」と「泡沫のような個人」という世界を描きました。ヘーゲルは「精神と自然」「心と物」というデカルト以来の二分された世界を「時間」すなわち「歴史」を導入することによって、人類の知の累積の果てに、精神への一元化を企てました。東洋→ギリシア・ローマ→ゲルマン→ヘーゲルが生きていた時代、という悠久の世界史において、人類は主観(意識の作用)と客観(意識の対象=自然や社会の一切)との一致(真理)を求めて、矛楯の統一(止揚)という動的認識(弁証法的認識)の「意識の経験」積んで行き、終には、「絶対精神」「世界精神」に至る、というのがヘーゲルの「壮大な歴史物語」の骨子となっています。しかし、もし、これが史実とするならば、一体、誰がこれを知るのか。それはヘーゲル自身以外ではあり得ないと言うことになります。これはまさに、独りよがりの「理性の傲慢」であり「理性の暴走」以外の何ものでもありません。また、もし、この世界史が真実であるとするならば、人類の一人一人は、「生の意味」も何もわからず、自らの「意識の経験」(人生)を「絶対精神」「世界精神」の実現に捧げると言う、まさに「歴史の狡知」に翻弄される泡沫のような存在となってしまいます。ヘーゲルの世界史に於いては、人間の自由とか権利などと言うものは全く存在しないことになります。

 

ヘーゲルは「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と言う自らの言葉に従って、自分が到達した「世界精神」という「理性的なもの」を現実のナポレオンに当てはめて、ナポレオンを世界精神の体現者と見なし、自説の正しさを検証しようとしました。しかし現実のナポレオンはヨーロッパ戦線で、諸国民の反発をかい、かえって侵略者となってしまい、ヘーゲルの検証は失敗しました。次に、ヘーゲルはその検証の対象をプロイセン王国に求めましたが、現実のプロイセン王国も進歩的な啓蒙運動を弾圧するような、世界精神の顕現とは程遠い存在でした。それで、結局、「理性的なものは現実的でなく、現実的なものは理性的でない」ということを自ら証明することになってしまいました。

 

ヘーゲルは、世界史を知る絶対者→世界精神→絶対精神→国家という理論の展開によって「絶対君主制」「全体主義」「独裁政治」等を正当化してしまいました。このようなヘーゲルの「理性の害毒」は当時のヨーロッパを汚染しただけではなく、その後も、世界中を汚染しました。(つづく)