悟りの証明

残日録

悟りの証明(49)

オバマ大統領が来日して、広島で大演説を行い、「核廃絶・核不拡散」を訴えました。日本も国際社会も「核廃絶・核不拡散」は殆ど不可能(核保有国の自己欺瞞・自己矛盾・自己都合)と知りつつ、努力することには何ら異存はないということで、このパフォーマンスを概ね歓迎したようです。

 

このイベントを批判し騒ぎ立てる必要はありません。しかし、果たして、ただ「歓迎」だけで終わっていいのでしょうか。「敗戦国だから」「侵略国だから」と思い込んで、ただ俯いてこのイベントを甘受するだけでいいのでしょうか。もしも、私たちに、私たちの先祖や子孫を思いやる心があり、先の大戦の反省を踏まえて、少しでも国際社会に貢献するという毅然とした強い意志があるならば、これを機に、肝に銘じておかなければならないことがあります。それは、私たちが国際社会に『喧嘩両成敗』という倫理の法を「啓蒙」しなければならないという使命です。

 

アメリカの世論は、オバマ大統領の核廃絶演説を目的とした広島訪問自体には反対しないが、「謝罪」はしないというものでした。私たち日本人は、中国や韓国のように謝罪を要求しません。なぜならば、謝罪は要求するものではなく、当事者が真に謝罪の心があるかどうかが問題だからです。私たちがなすべき事は、アメリカ人が進んで心の底から謝罪できるように『喧嘩両成敗』法をもって啓蒙し、民度を上げてやることです。

 

アメリカ人は、先の戦争は自衛戦争で正しかった(正戦論)、日本は宣戦布告なしに真珠湾を先制攻撃し、アメリカを侵略した。対して、日本も、兵糧攻めにあっていたので自衛戦争であった、宣戦布告をしたが不手際があり間に合わなかった、などと互いに主張して、静かな反目が未だに続いています。しかし、このような両者の「理非主張」は『喧嘩両成敗』法の下では一切許されません。この法の下では、「侵略という概念は定まっていない」のではなく、侵略などという概念そのものが存在しないのです。攻撃に対して応戦した以上、それは戦争以外の何ものでもないのです。

 

「喧嘩両成敗」は単に喧嘩だけを禁じているのではありません、喧嘩の原因となる「口論」をも禁じているのです。赤穂事件(元禄14年・1701年)は、吉良上野介が朝廷との年賀儀式儀礼を伝授する要職にありながら、浅野内匠頭に適切な指導をしなかったことによって儀式儀礼の進行に齟齬をきたしたことに端を発しています。当時の幕府は、「殿中狼藉」の廉で、内匠頭だけに切腹を命じましたが、江戸庶民は「無分別の分別」「素朴な平衡感覚」で、その措置に納得しませんでした。当時の庶民達は、殿中狼藉は「喧嘩」ではないが「口論」が原因であったことに違いない、「殿中狼藉」という罪状は時の幕府が勝手に決めたことであり、『喧嘩両成敗』は天下の法である筈だ、なぜ吉良上野介にも罰を与えないのか、「片落ち(片成敗)」ではないのか、ということで赤穂藩士に同情したのです。元禄の庶民は、言論(口論)は時には暴力以上にたちが悪いということを「無分別の分別」として体得していたのです。

 

日本は、「東京裁判」において、連合国の「自力救済」と「勝てば官軍」という論理をもって、<事後法>である「平和に対する罪」「戦争犯罪」「人道に対する罪」という三つの罪で裁かれ、「侵略国」という汚名を着せられ、未だに中国や韓国のプロパガンダに悩まされています。一方、アメリカ合衆国 、イギリス、ソビエト連邦中華民国、フランス等の連合国は、罪を問われることすらなく、謝罪することなく、一切の賠償もなく、「片落ち(片成敗)」を当然のこととしてきました。戦後70年、連合国は相変わらずの「自力救済」と「勝てば官軍」の論理で、50件以上の戦争・紛争・内戦に関与し、「自国の利益」のために、他国を蹂躙してきたのです。戦後の日本は、自国はもとより国際社会のために、一体何をしてきたのでしょうか。日米安保反対運動やベトナム反戦運動はありましたが、それらは何れも共産主義という借り物のファッション思想をもって、アメリカ資本主義と対立したに過ぎず、日本にとっては何らの必然性もありませんでした。日本の戦後70年、一度たりとも『喧嘩両成敗』という倫理の法を掲げた「必然的な運動」はありませんでした。

 

『喧嘩両成敗』法は「連座制」を謳っています。日本への原爆投下はアメリカだけの責任ではありません、その他の連合国も連帯して責任を負わなければなりません。

連合国は、テロに悩まされ、怯えています。それは、「半落ち(片成敗)」を繰り返してきた必然の報いとしか言いようがありません。

 

アメリカの自国中心主義、中国の膨張主義、ロシアのナショナリズム北朝鮮核武装、ヨーロッパの難民問題、EUの不安定性、ISのテロ等々、国際社会は明らかに不安定な方向に向かっています。このような国際情勢の中にあって、『喧嘩両成敗』という倫理の法が日本を支えてくれる筈ですし、『喧嘩両成敗』をもって国際社会を「啓蒙」することが日本の使命なのです。

 

(つづく)