悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(42)

吉本隆明の183講演(要検索)の一つ『親鸞の造悪論』に対して、批判を続けます。

 

吉本がこの講演において披瀝している内容は、吉本の「知識の対象界」であって、吉本によって知られた世界、吉本によって描かれた世界、すなわち吉本の「客観界」「色の世界」ということになります。そして、吉本はこの自らが認識した「色の世界」の中に住んでいると錯覚しています。これを仏教では迷妄といいます。この仏教の迷妄と、吉本がこの講演で述べている迷妄とを比較すると、一体どちらが迷妄なのでしょうか。吉本が述べている迷妄は「迷妄のそのまた迷妄」ではないでしょうか。人はそれぞれの知識によってそれぞれの世界を描くもので、人間に個性がある以上、各々が描いた各々の絵が一致することはありません。結果、争いが絶えないということになります。従って、仏教は人間の知すなわち「人知」そのものを否定することになります。私たちは皆、この世界は唯一であって、この世界の中で生きていると思い込んでいますが、これこそ迷妄なのです。世界人口70億人として、70億の世界があるのです。私たちが死ねば、私たちが描いた世界も消滅するのです。勿論、人間の「認識の形式」は人類普遍ですから、全く別々の70億の世界があるというのではなく、重なっている部分があることは言うまでもありません。しかし、重なっていない部分こそが個性と言うことになります。

 

親鸞比叡山での20年間、自らの「人知」を頼りに仏典の解読に全力を尽くしたはずです。しかし悟りを得ることなく、失意のうちに下山した直後に悟りを得て、気がついたことは、「捨てるべき人知」を頼りに20年もの歳月を費やしたという事実に愕然としたはずです。そこで、自らに付した名前が『愚禿(はげあたま)』だった筈です。

 

親鸞の主著は『教行信証』ですが、他の宗派は「教行証」なのに、親鸞はなぜ『信』の一字を挿入したのでしょうか。私たちが物事を信じるとき、そこには既に「人知」はありません、信は「人知を排除」しているのです。知を排除された私たちは残る「情」と「意」をもって信仰の世界に入ることになります。

 

「善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」という『悪人正機説』は決して「人知」をもってしては解けないのです、「人知」を拒んでいるのです。

これは親鸞の「仕掛」なのです。しかし、「人知」より高次の知である「般若」によって解くことが出来ます。(悟りの証明(38)参照)

 

無知の知」は「自然(じねん)の知」ですから、誰にでも具わっていて常にハタライテいるのですが、この「無知の知」を意識上に持ち来たって活用するには「般若」、すなわち「知るものが知られるものであり、知られるものが知るものである」という自己同一知が必要になります。そして、この「般若」によって、はじめて「動的・具体的・全体」としての「現実」「事実」「実在」を知ることが出来るようになります。

 

(つづく)