悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(33)

「一即多」すなわち宇宙のハタラキ(一)は私たちのハタラキ(多)として降臨してきます。西田幾多郎はこれを「私たちの人生とは宇宙精神を実験することである」と実感を込めて述べています。この宇宙精神とは宇宙のハタラキを意味しています、ハタラカない精神はあり得ません、精神は「精神力」と表現した方が適切です。精神力とはハタラキを主観的に表現したものです。仏道とは「ただハタラク」ことであり、さらに積極的に「ただハタラキをハタラキたらしめることです。所謂「行」とは「ただハタラキをハタラキたらしめる」ことです。仏道とは仏行に他なりません。「ハタラク」は「ただハタラク」でなくてはなりません、無我のハタラキでなくてはなりません、三昧におけるハタラキでなくてはなりません、「無作の作」でなくてはなりません、「ただ」とは「無我」ということです。先に述べたように、私たちの普段の意識である「二次的意識」すなわち「個多の意識」が働くと一次的意識(三昧)・全一は消滅してしまうのです、「のっぺらぼう(混沌)」の「全一」は個多の出現で消滅してしまうのです。私たちが二次的意識において知るということは連続的なものに切れ目を入れて分節し不連続にするということです、アナログをデジタル化すいるということです。私たちの普段の知は対象を必要とし、対象との関係を明らかにしようとする「関係知」です、従って必然的に知るものと知られるものの「二」=「二元」になり、二元は多元化していきます。「全一」は真っ二つに分裂し千々に分裂して個多になります。私たちは私たちの知=「理性」で全一を認識することが出来ないのです。山を見るには、山の中にいて山を見る見方と、山を出て山を俯瞰する見方との二様の見方があります。前者を「自観」といい後者を「傍観」といいます。真の山は「自観」によって把握されるものです。「全一」は自観すなわち自知・般若・自己同一知によってのみ知り得るものなので、理性によっては知り得ないのです。

 

三島由紀夫は日本文化を体現する作家・思想家として希有の存在でした。『文化防衛論』において次のような一文があります。

 

「又、文化は、ぎりぎりの形態においては、創造し保持し破壊するブラフマンヴィシュヌ・シヴァのヒンズー三神の三位一体のような主体性においてのみ発現するものである。これについて、かつて戦時中、丹羽文雄氏の『海戦』を批判して、海戦の最中これを記録するためにメモをとりつづけるよりも、むしろ弾丸運びを手つだったほうが真の文学者のとるべき態度だと言った蓮田義明氏の一見矯激な考えには、深く再考すべきものが含まれている。それが証拠に、戦後ただちに海軍の暴露的小説『篠竹』を書いた丹羽氏は当時の氏の本質は精巧なカメラであって、主体なき客観性に依拠していたことを自ら証明したからである。(後略)」(『文化防衛論』P47)

 

「海戦の最中これを記録するためにメモをとる」ということは山を離れ、飛翔して、山を「傍観」するということであり、「弾丸運びを手伝うと」いうことは山の中にいて山を「自観」するということです。海戦という「事実」「実在」を真に把握すすためには「自観」が必要なのです。「主体」とは知・情・意が三位一体となった「人格的行為」を意味し、「主体なき客観性」とは「情意が欠落した理性」の単なる「認識」を意味しています。真に物事を知るということは体験するということであり、体得するということです。

 

因みに、理性は自らの理想に現実を適合させようとしますが、意志は理想を自らの現実に適合させようとします。両者は全く逆のベクトルを持っています。左派は前者であり、右派は後者ということになります。三島の「主体なき客観性」とは無責任な左派を揶揄する意図が込められています。

 

全一なるものは「理性の認識」によっては知り得ないものです。「意志の行為」によって、行うことが知ること、作用が作用自身を内容として知ること、作用の作用、すなわち「行即知」として、『事行』(西田幾多郎)としてはじめて知ることが出来るのです。

詰まるところは「ハタラキがハタラキ自身を知る」という自己同一知によってのみ全一を知り得ると言うことになります。

(つづく)