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悟りの証明

仏教の一隻眼

悟り(13)

私たちの知には、「相対知=分別知」と「絶対知=無分別知=直覚=自知=自己同一知=般若」との二種があります、そして後者が前者に先立って働くという特徴があります。

 

「父母未生已前のお前の面目は」

「隻手の声を聞け」

「聞かぬ前の鐘の音を聞け」

 

これらは何れも「相対知」以前に、先行して働く「絶対知」を把握することを促しています。私たちの日常生活を子細に分析してみると次のようなことがわかります。

 

いつものように朝起きて、歯を磨き、朝食のテーブルにつきます、すると目前に何時もと違うものを発見します、テーブルの上に何やらうごめくものを発見します、そこで「これは何」と自問します。今まで見たこともない物で気になりましたが、いつものように出社しました。

 

この行動を分析してみると、何やらうごめく物を発見する前後の行動は習慣化しているために、ほとんど「無意識」の行動になっている筈です。この無意識の行動は「主客未分の意識」の行動として、意識作用が意識内容を保持している状態です。意識はしていても、意識内容を外化し、対象化し、明確な対象を得ていない意識の状態です、「無意識の意識」なのです。一方、何やらうごめく物を発見し、「これは何だ」と意識する時、意識の流れは一瞬停滞し、意識内容を外化し、対象化して、対象を得ようと努めているのです。この一瞬の意識のプロセスは「無意識の意識」から「普段の意識」への移行を意味しています。この「いま・ここ」という「意識の現場」においてハタライテイル「現在意識」を仏教は冷徹に観察します。仏教の原点は、まさに、ここにあります。西田幾多郎の「現在意識」あるいは「純粋経験」はここを意味しています。私はこれを、より具体的に「純粋意識現象」と言っています。

 

私たちは、今、テーブルの上で何やらうごめくものを見ています、「これ何?」の意識の状態です。ここで私たちは判断を下そうとします。しかし、「これ」は今まで見たこともないものなので、判断できません。「昆虫か」「しかし足は二本だ」「色は青い」「頭がない」・・・。いろいろとその性質を分析し、記憶(知識の体系)と照合して、このものを限定しようとします。しかし、結局、限定することができず、限定できないまま、やむなく新種の昆虫ということで落ち着くことになります。

 

アリストテレスは、「このもの」すなわち「個物」とは「主語となって述語とならないもの」と定義しました。上の例では、「このもの(主語)」は「昆虫、足が二本、色は青い、頭がない、・・・」といった述語で限定しようとしても、結局、何処まで行っても限定できません。主語である「このもの」は限りない述語をもって限定しようとしても不可能なのです。しかし、ここで重要なことは、私たちはこの物をこの物自体として確かに認識しているという「事実」です。認識しているからこそ分析して述語を並べることが出来るのです。この時、私たちはこの物をこの物として、「動的・具体的・全体」として、「真の実在」として確かに認識しているのです。ものごとが「これは何」として把握されている時、そこには「真の現実」「真の事実」「真の実在」があるのです。私たちは「これ」を「何」として認識するところに「絶対知」がハタライているのです(仏性現前)。そして、「その後」これを述語として限定しようとするとき「相対知」が働くのです。「答えは問いにあり」という仏教の至言はまさにこのことを意味しているのです。

 

道元禅師は主著『正法眼蔵』仏性の巻に於いて、

「四祖いはく、是何姓は、何は是なり、是を何しきたれり、これ姓なり。何ならしむるは是のゆえなり、是ならしむるは何の能なり。」

(四祖いわく、これ何と認識するハタラキ=私たちの本性=私たちの仏性というのは、何を是として認識することである、是を何として認識すること、それが仏性である。何を何たらしめるものは是という認識があるからであり、是を是として認識できるのは何と認識する能力=仏性があるからである。)

 

要するに、私たちが「これ何」と認識するところに、無限定(何)の限定(これ)としての認識(絶対知=般若)が現成するということになります。この無限定の限定として把握されるものが、認識作用の内容としての「動的・具体的・全体」である「真の実在」ということになります。そして、この主語としての「何これ」が反省されて、継起する新たな認識作用によって対象化されるとき(認識内容が認識対象となるとき)、「動的具体的全体」である「これ何」が「静的抽象的部分」として述語となる時、相対知(分別知)が現成するということになります。

 

「言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒」

(言ったら三十回棒で叩く、言わなくても三十回棒で叩く)

 

「言い得る」ということは単なる「述語」です、知(相対知)です、「言い得ざる」ということは全くの無知ということです。知と無知との狭間にあるもの、それは「無知の知」「無分別の分別」すなわち「無分別にして分別」「無分別即分別」という絶対知=無分別知=自知=自覚=自己同一知なのです。(つづく)