悟りの証明

残日録

悟りの証明(35)

「山の中にいて山を見る(知る)」とは三昧(一次的意識)において三昧を見る(知る)ということで、「山を離れて山を見る(知る)」とは二次的意識において二次的意識を見る(知る)ということになります。三島由紀夫の絶妙の表現「主体なき客観性」とは、客観界に自ら(主体)を置いて客観界を見るという倒錯を意味しています。「主体」があるのは「意識作用界」=「主観界」=「空の世界」であって、「意識対象界」=「客観界」=「色の世界」にはありません。私たちは、生来、キャンバスにこの世界を描き続けますが、その過程で、自らもキャンバスに描き入れてしまうという倒錯に陥るのです。私たちの誰しもが陥る倒錯がここにあります。『般若心経』の「遠離一切顚倒夢想」は私たちをこの顚倒した世界から離脱することを説いているのです。

 

仏教を理解する上で最も重要なことは、「色→空→色即空」を明確に理解することです。

色=意識の対象界=客観界=有無の世界

空=意識の作用界=主観界=絶対無の世界

色即空=意識作用即意識対象界=主客未分界=三昧=絶対無即絶対有の世界

 

(つづく)

悟りの証明(34)

宇宙のハタラキ(力・エネルギー)は人間のハタラキ(生命力・精神力)として降臨(神人同性)するだけではなく、一切の物に降臨(神物同性)し、八百万の神々を現成させ、この宇宙・この世界を「ハタラキの世界」「生命の世界」に転じます。所謂自然は無意味な物質からハタラキ(エネルギー)に転じ動的世界・生命の世界すなわち『諸行無常』となります。

 

しかし、ここで述べている「ハタラキ」を「自観」することは容易なことではありません。

 

或る禅師は、弟子には何も教えず、来る日も来る日も、終日、庭前の石ころに向かって話をしていたということです。当然、弟子達は去り、訪れる修行僧もなく、寺は閑散としていました。ある日、一人の修行僧が訪れ、垣根越しに、禅師の石との会話の様子を見るやいなや、禅師に駆け寄り、弟子入りを請うたと言うことです。この時、修行僧は確かに「ハタラキ」を「自観」することが出来たのです、悟ったのです。修行僧は悟りを求めて諸国を彷徨い師に教えを請いますが、教えを学ぶということは「傍観」に過ぎません。何かを真に知ると言うことは「自観」すると言うことです。教えを請い、その結果、知れば知るほど「山から遠のく」すなわち『向かえば背く』という矛盾に生きなくてはならないのが修行僧であり、私たちです。それ故に、神道では「言挙げせぬ」といい、禅では「不立文字」といって、いずれも言語による知識を拒みます。

 

「不立文字」の後に「教外別伝 直指人心 見性成仏」と続きます。言葉(概念)では伝えられない、教としては教えられない「ハタラキ」そのものを、教えではない別の方法で、上記の師の石との会話のように直指することによって、性すなわち本性=「ハタラキ」=仏性を「自観」させ、仏と成らしめる、というのが禅の宗なのです。

 

「よく見れば薺花咲く垣根かな」 芭蕉

 

晩冬のある日、芭蕉は家を出た瞬間、降り注ぐ日差し(ハタラキ)の中に微かな春を感じ(ハタラキ)ました。芭蕉は、この春の感じは果たして確かなものかとその証を得るために、辺りを「よく見」ました。すると案の定、垣根のそばにぺんぺん草の可憐な花が咲いて(ハタラキ)いました。芭蕉は春の到来を確かなものにしたのです。芭蕉の春はぺんぺん草の春となり、生きとし生けるもの一切の春となり、世界は春の歓喜に満たされたのです。(つづく)

悟りの証明(33)

「一即多」すなわち宇宙のハタラキ(一)は私たちのハタラキ(多)として降臨してきます。西田幾多郎はこれを「私たちの人生とは宇宙精神を実験することである」と実感を込めて述べています。この宇宙精神とは宇宙のハタラキを意味しています、ハタラカない精神はあり得ません、精神は「精神力」と表現した方が適切です。精神力とはハタラキを主観的に表現したものです。仏道とは「ただハタラク」ことであり、さらに積極的に「ただハタラキをハタラキたらしめることです。所謂「行」とは「ただハタラキをハタラキたらしめる」ことです。仏道とは仏行に他なりません。「ハタラク」は「ただハタラク」でなくてはなりません、無我のハタラキでなくてはなりません、三昧におけるハタラキでなくてはなりません、「無作の作」でなくてはなりません、「ただ」とは「無我」ということです。先に述べたように、私たちの普段の意識である「二次的意識」すなわち「個多の意識」が働くと一次的意識(三昧)・全一は消滅してしまうのです、「のっぺらぼう(混沌)」の「全一」は個多の出現で消滅してしまうのです。私たちが二次的意識において知るということは連続的なものに切れ目を入れて分節し不連続にするということです、アナログをデジタル化すいるということです。私たちの普段の知は対象を必要とし、対象との関係を明らかにしようとする「関係知」です、従って必然的に知るものと知られるものの「二」=「二元」になり、二元は多元化していきます。「全一」は真っ二つに分裂し千々に分裂して個多になります。私たちは私たちの知=「理性」で全一を認識することが出来ないのです。山を見るには、山の中にいて山を見る見方と、山を出て山を俯瞰する見方との二様の見方があります。前者を「自観」といい後者を「傍観」といいます。真の山は「自観」によって把握されるものです。「全一」は自観すなわち自知・般若・自己同一知によってのみ知り得るものなので、理性によっては知り得ないのです。

 

三島由紀夫は日本文化を体現する作家・思想家として希有の存在でした。『文化防衛論』において次のような一文があります。

 

「又、文化は、ぎりぎりの形態においては、創造し保持し破壊するブラフマンヴィシュヌ・シヴァのヒンズー三神の三位一体のような主体性においてのみ発現するものである。これについて、かつて戦時中、丹羽文雄氏の『海戦』を批判して、海戦の最中これを記録するためにメモをとりつづけるよりも、むしろ弾丸運びを手つだったほうが真の文学者のとるべき態度だと言った蓮田義明氏の一見矯激な考えには、深く再考すべきものが含まれている。それが証拠に、戦後ただちに海軍の暴露的小説『篠竹』を書いた丹羽氏は当時の氏の本質は精巧なカメラであって、主体なき客観性に依拠していたことを自ら証明したからである。(後略)」(『文化防衛論』P47)

 

「海戦の最中これを記録するためにメモをとる」ということは山を離れ、飛翔して、山を「傍観」するということであり、「弾丸運びを手伝うと」いうことは山の中にいて山を「自観」するということです。海戦という「事実」「実在」を真に把握すすためには「自観」が必要なのです。「主体」とは知・情・意が三位一体となった「人格的行為」を意味し、「主体なき客観性」とは「情意が欠落した理性」の単なる「認識」を意味しています。真に物事を知るということは体験するということであり、体得するということです。

 

因みに、理性は自らの理想に現実を適合させようとしますが、意志は理想を自らの現実に適合させようとします。両者は全く逆のベクトルを持っています。左派は前者であり、右派は後者ということになります。三島の「主体なき客観性」とは無責任な左派を揶揄する意図が込められています。

 

全一なるものは「理性の認識」によっては知り得ないものです。「意志の行為」によって、行うことが知ること、作用が作用自身を内容として知ること、作用の作用、すなわち「行即知」として、『事行』(西田幾多郎)としてはじめて知ることが出来るのです。

詰まるところは「ハタラキがハタラキ自身を知る」という自己同一知によってのみ全一を知り得ると言うことになります。

(つづく)

悟りの証明(32)

宇宙のハタラキは人間のハタラキ、すなわち神のハタラキは人のハタラキとして「神人同性」というのが神道であり仏教です。嘗て、日本人であれば生きとし生けるものにはすべて神が宿ると無意識に意識するのが普通でしたが、欧米思想のコピペを専業とする知識人・言論人によて神・仏は抹殺されてきました。

 

「神人同性」とは「一即多」ということです。「一」とは「全一」「全体」を意味し、多とは「個多」「部分」を意味し、「一即多」とは一と多は矛盾しながら自己同一であるということを意味しています。この仏教の論理は「二者択二」を意味しますが、仏教以外の一般的な論理、特に西洋の論理では「二者択一」を意味します。

西洋の論理において、一と多の関係、全体と部分との関係は統一されることなく、全体論(ホリズム)VS還元論、目的論VS機械論といった不毛の「平行論」として発展してきました。

 

「一即多」を理解する上で次の『荘子』に出てくる「混沌王物語」は興味深いものがあります。

 

昔々、南海の王様と北海の王様と中央の王様がいて、ある時、中央の王様である混沌王の所に集まって、盛大な宴会を催しました。歓待を受けた北海の王と南海の王は深く感謝し、返礼をすることにしました。二人は思案の末、混沌王が「のっぺらぼう」であったために、人間のような七つの穴(眼・耳・鼻・口)を開けて、楽しんでもらおうと考えました。しかし、二人が七つの穴を開け終わるやいなや混沌王は死んでしまいました。

 

この物語は、「のっぺらぼう」の混沌すなわち「全一」(全体・連続・絶対無・空)は、七つの穴すなわち「個多」(部分・非連続・有無・色)を持ち込むことよって消滅してしまい、そのことによってまた七つの穴も滅してしまうということを示唆しているのです。全一なるものは個多の出現によって消滅し、やがて個多もまた消滅するということになります。結局、「全一」なるものは知り得ないということを意味しています。私たちが物事を普段の知である二次的意識の分別知・相対知で知ろうとするとき、知るものと知られるものとに分かれて「二」となり、結局全一なるものは知り得ないということになります。従って、全一を知ろうとしたら、どうしても一次的意識の三昧における般若・自知・自己同一知が必要になります。

 

普段の意識(知)ではどうしても「全一」なるものを意識(知る)ことはできず、「個多」のみを意識することになります。このことは私たちを決定的な誤謬にミスリードすることになります。例えば、民主主義といえば誰もが抗えないものになっていますが、このまま行けば人類の滅亡は避けられません。民主主義は人権を基礎にしており、この人権は「自然権」に由来します。自然権は、神が個々の人間に付与したとする考え(神が言ったのか?)と、人間の本性に由来する(人間の本性を見抜いているのか?)という考えがありますが、いずれにしても全一を無視した個多(個々人)は利己的存在となり、ホッブスの「万人の万人に対する闘争」は不可避となります。民主主義は、利己を利己と思っていない利己が蔓延し、言論の自由を謳歌して利己を主張し、利己と利己が衝突し、言論の暴力がやがて所謂暴力に発展し、殺し合うという筋道を辿ることになります。

 

因みに、「全一」の別名を「神」といい「仏」といいます。神と仏の関係はブラフマンアートマンの関係と見るのが至当でしょう。

 

(つづく)

悟りの証明(31)

仏教の教説は悟りを得ずして理解することは出来ません。悟りは三昧・一次的意識において般若・直覚・直観によって自覚されるハタラキです。三昧は主客未分の意識状態で、意識の内容(未だ意識対象にはなっていない)のみが現前している状態で、意識作用が意識内容を保持している状態です。無我夢中の状態が三昧ですが無我は決して夢の中にあるのではありません、それとは全く逆に「現実」の中にあります。三昧における意識内容は「動的・具体的・全体」としての「現実そのもの」です。無我とは我がないということではありません。無我とは「ハタラキとしての我」「主観としての我」「意識作用としての我」であり、対する、我とは「客観としての我」「意識対象としての我」です。眼は一切を見ますが、眼自身を見ることは出来ません。見るという作用は一切の物事を対象として見ることが出来ますが、作用自身を対象として見ることは出来ません。しかし、三昧において自ずと(自然に)ハタラク・般若・直覚・直観は作用を対象とする作用で、作用自体を見ることが出来ます。西田幾多郎はこのハタラキ・般若のことを『作用の作用』という表現をしています。平たくいえば、ハタラキ・般若とは意識するものが意識されるものという自己同一知で、この自己同一知を体験的に知ることが悟りということになります。私たちの普段の意識である二次的意識は三昧(一次的意識)における意識作用の内容を、継起する新たな意識作用によって対象化して意識対象界を構成しているのです。つまり、一次的意識の世界は「意識の作用界」「主観界」「空の世界」であり、二次的意識の世界は「意識の対象界」「客観界」「色の世界」ということになります。

 

私たちの意識の動きは、~一次的意識(三昧)ー二次的意識ー一次的意識ー二次的意識~というように交互に時間に沿って動いていきますが、一次的意識(三昧)は「時空の意識」として個立(特立)しているので、継起する「空間の意識」である二次的意識とは直接つながることなく断絶(際断)しています。これを道元禅師は『前後際断』といい、西田幾多郎は『不連続の連続』といっています。浄土宗の『横超』は時間を止めて空間的に一次的意識と二次的意識を行き交うものとしてのハタラキを意味していますが、禅宗の『堅超』は時間的に一次的意識と二次的意識とを行き交うハタラキを意味しています。

 

実在としての時は『前後際断』であり『連続の不連続』ということであり、連続する時と不連続の時、すなわちアナログの時とデジタルの時との両立と連結・統一によって成り立っているということになります。そして、この連結・統一担うものこそ「ハタラキ」「仏性」という唯一実在ということになります。

 

私たちが普段に意識している世界は意識の対象界であり、客観界であり、空間化された死の世界です。私たちの普段の意識はすべてを『物象化』してしまうのです。対する三昧の世界は意識の作用界であり、主観界であり、時間化された生の世界です。そしてこれら両界を統一して真の実在界を形成するのが「ハタラキ」の働きなのです。(つづく)

悟りの証明(29)

我と無我、いずれが「本当の我」・「真我」でしょうか? 答えはいずれでもありません。上来述べてきたように、我とは「ハタラキ」のことです。誤解してはいけないのは、我がハタラキを持っていて、我がそのハタラキを使うのではありません、「ハタラキが我」なのです。従って、真我は我と無我を超越して我と無我とを自由に動き回るハタラキなのです、我や無我に止まっていては「ハタラキ」は失せてしまいます。浄土宗の真我を「横超の我」といい、禅宗の真我を「堅超の我」といいます、これら両者は全く同義です。

 

親鸞は「横超の我」のことを平たく「非僧非俗」といい、禅宗は「二由一有 一亦莫守 」(一は二によってあり、二もまた守ることなかれ)と表現しています。いずれも「真我」とは一次的意識の我でもなく二次的意識の我でもない、これら両者を超越して、両者を行き来するハタラキこそが真我であると説いています。

 

「我とは何か?」、これこそ人間の根源的な問いです。自由、平等、人権、民主主義、政治制度等々、いかなるイシューも詰めていけば窮極的にこの問いに答えを出さなければなりません。

 

因みに、マルクス社会主義思想について考えてみると、その思想のスタートもゴールも間違っています。先ず、そのスタートにおいて、マルクスは「精神と自然・精神と物質・精神と身体」という二元論を是認し、自然・物質・物の方面に一元化すると言う、所謂「唯物論」を展開しましたが、仏教ではこの二元論一元化そのものが成り立ちません。仏教では、精神とは実在を主観的(一次的意識)に見たものであり、物質とは実在を客観的(二次的意識)に見たものであり、両者は見方の相違に過ぎず、元来自己同一であると考えます。物理学の原子世界でも、質量(物質)がエネルギー(ハタラキ)に転換したりエネルギー(ハタラキ)が質量(物質)に転換します。アインシュタイン特殊相対性理論のなかでエネルギー(ハタラキ)E と質量(物質)mが等価であるとする関係式(E=mC²)を示しています。また、マルクスはゴールも間違っていました。マルクスのゴールは、ベンサムの「最大多数の最大幸福」を可能にする社会ですが、そもそも人間の幸不幸は主観的且つ客観的なもので、客観的にのみ論じることが出来ないものです。仏教では「自己実現」こそが人間の幸福であり、自己実現を可能にする社会こそがあるべき社会なのです。私たちの「真我」は精神でもなく身体でもない両者を超越して、自己実現を生き、「当為」を生きる、動いて止まない「ハタラキ」なのです。(つづく)