悟りの証明

残日録

悟りの証明(61)

私たちは誰でも、私たちの外側に世界が広がっていて、私たちが死んでもその世界はそのまま残っていると思い込んでいるようですが、果たしてそうでしょうか。一般に、世界と言えば次の三つが考えられます。

 

1、感じられた世界(感官の対象界) 

  我々が見るもの聞くもの、すなわち感官の対象となる世界(自然科学的世界)

2、考えられた世界(思惟の対象界)

  思惟の対象となるもの、すなわち理性的な世界(プラトンイデア界等)

3、直接体験された世界(行為の対象界)

  我々の自己に直接である体験の世界、すなわち知情意の対象となる世界(三

  昧の世界)

  

私たちの真の自己は「ハタラク自己」であり、真の世界とは上記3の行為的自己の対象界です。行為的自己に抵抗するものが真に「客観的」と考えられ、真に我々を超えたものと考えられます。道元禅師の『正法眼蔵』・「現成公案」の一節にはそのことが明確に著されています。

 

(第一段)

諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。

 

(第二段)

萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。

 

(第三段)

佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。

 

(第四段)

しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

 

第一段は「色の世界」です、「意識の対象界」すなわち私たちによって意識された物事の世界です。上述の1と2に相当します。

 

第二段は「空の世界」です、「意識の作用界」すなわち私たちの意識のハタラキの世界です。眼は一切を見ますが眼自身を見ることは出来ないように、「眼の作用」の世界は「絶体無」「空」の世界です。

 

第三段は「色即空」の世界です、主客未分の行為の世界です。行為の世界に於いては主観と客観が一つになっています、「主観即客観・客観即主観」です。上述の3に相当します。

第四段は「行為の世界」で、この一節のまとめになっています。「しかもかくのごとくなりといへども」という接続語が非常に重要で、「第三段までは<教>としては論理的に「このようであると言えるが」、<行>の立場では(『正法眼蔵』は「行の書」)、「花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」というように真の世界は三昧に於いて知情意の「全機現」によって現成する。(つづく) #悟り