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悟りの証明

仏教の一隻眼

理性の害悪(5)

この世に悪魔というものが存在するとしたら、それはマルクス以外にはあり得ません。マルクスに洗脳された、あるいはマルクスの思想を利用した、スターリン、レーニン、毛沢東、ポル・ポト、金日成、その他の共産主義国の独裁者達は、共産主義社会の実現のために反対派を大量虐殺し、国家を疲弊させ、国民の自由を奪っただけではなく、世界を東西に分断し、世界中の紛争の原因となり、その害毒は今尚厳然と存在し、未来の暗雲となっています。

 

マルクス主義の誤謬は少なくありませんが、分けても、決定的な誤謬は、その「目的設定」にあります。私たちは、何かを行う場合、そこには必ず「目的」というものがあります。行いの正しさはその目的の正しさいかんにあります。マルクスは「共産主義社会」の実現を目的とし、その内容は、この社会の中で生きる民衆こそ「各人は、能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」(ゴータ綱領批判』)「幸福」な民衆であるという、単なる「ドグマ」(独断的教義)を目的としました。

 

「各人は、能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ことが出来ることが私たちの幸福なのでしょうか。「何の目的もなく」能力に応じて働き、必要に応じて受け取ることが幸せなのでしょうか。仏教では、次のように、人間の幸せ(人間の生きる意義)とは「自己実現」あるのみと説いています。

 

「この世で、自らを島とし、自らを頼りとして、他人を頼りとせず、法を島とし法を拠として、他を拠とせずにあれ、斯くして、私は自己に帰依することを成し遂げた。」(大パリニッバーナ経)

 

私たちには「個性」があります。最近のDNA研究によれば、同じDNA型の別人が現れる確率は4兆7000億人に1人ということになっています。私たち一人一人は「特殊」であり「個物」(独立自全の存在)そのものです。個性ある私たちは、決して「一般」には還元できない、その唯一の個性を生きるのです、自己実現を生き、自己実現に生きるのです。

 

私たちには「欲求」があり、私たちは欲求を満たすために生きている存在であると言うことが出来ます。アメリカの心理学者アブラハム・マズローの『欲求段階説』によれば、私たちの欲求には、「生理的欲求」→「安全の欲求」→「社会的欲求」→「承認の欲求」→「自己実現の欲求」→「自己超越の欲求」等があり、これらの欲求は「生理的欲求」から始まって、これが満たされると順次上位の欲求に移って行き、最後に「自己超越の欲求」が出てくるということになっています。しかし実際には、「自己実現の欲求」は既に「生理的欲求」の段階で芽生えていて、これら六種の欲求のすべては「自己実現の欲求」と見ることができます。例えば、最下位の「生理的欲求」の段階でも、親が自らを犠牲にして最後の食を子に与えるというような自己実現もあります。時には窮極の自己実現として、自らの死を意味することもあります。

 

私たちの幸福を考える時、主観と客観の両面から考える必要があります。幸福を客観的に考えれば、衣食住という物質が必要なことは言うまでもありませんし、これを政治的に表現すれば「最大多数の最大幸福」という量的(唯物論的)な表現になります。一方、幸福を主観的に考えれば、「自己実現」という目的がなければなりません。動物と私たち人間を分かつものは、衣食住という物質に満足することなく、最後の一呼吸まで、自己を実現していくところにあるます。

 

理性が求めるものは、誰もが納得する「一般的」なものでなくてはなりませんし、一般的であるためには「主観を排除」して、「客観的」でなくてはなりません。理性の陥穽はまさにこの「主観の排除」にあると認識した上で、理性を使うことを知らなければ、マルクスのような根本的な誤りを犯してしまうことになります。

 

共産主義から日本文化を防衛しようとした(『文化防衛論』)三島由紀夫の「主体なき理性」(=主観なき理性)という一言は、マルクス主義を瞬殺し、理性を職業とするリベラルの知識人、言論人、ジャーナリスト、政治家等の言説を黙殺して余りある力を持った「至言」であり、芸術家ならではの「美しい言葉」です。(つづく)