悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(26)

「仏教」は窮極の自己実現である「悟り」を目的とする宗教哲学です。悟りは「経験を超えた特殊な体験」です。悟りは、理論理性の追求の果に、突破できないアポリアの状態に彷徨していて、「何ものか」を契機に「ふと」アポリアを突破する体験です。悟りは、所謂「百尺竿頭更進一歩」のところに開ける「別天地」です、棚からぼた餅は決してありません。

そして「仏道」は悟りから始まり、仏教は仏道となって、教から行すなわち実践へと移っていきます。これは、天の理としての「ハタラキ」が人の道としての「ハタラキ(本性=仏性)」となることを意味しています。西田幾多郎が「私たちの人生とは宇宙精神(宇宙のハタラキ)の実験である」といった真意はここにあります。

悟りという体験は「何ものか」を契機として得られるものですが、この「何ものか」は、どのような些細な体験でもあり得るものです。例えば、転んだ拍子に、音を聞いた刹那に、怒鳴られた瞬間に等々、日常の些細な出来事が悟りの契機となります。
因に、観音菩薩とは音によって私たちを悟りに導く使者ということになっています。

カントによれば、私たちは時間・空間・因果律によって制限された所謂経験的存在であり、自然必然の埒外に出ることは出来ない存在であるが、自由や神や霊魂は人間にとって不可欠であり、「要請されるべきもの」となっています。しかし、もしもカントが「物自体」を仮定せずに、「物自体を三昧におけるハタラキ(意識作用)の内容(≠対象)・主客未分である」と考えることが出来たならば、自由や神や霊魂を体験できるものとして「実証」できた筈です。

仏教の慧眼は、まさに、意識以前の意識、二次的意識以前の一次的意識、二次的意識を根拠づけている一次的意識つまり「三昧」を発見したことにあります。(つづく)