悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(25)

我と非我は対立するものではありません。我は我、非我は非我でありながら、そこには対立はないのです。我と非我の関係は、我=自と置き換え、非我=他と置き換えてみると、「自即他・他即自」ということになります。「即」には「転じる」「回互する」という意味があります。つまり、「自即他・他即自」=「自が他に転じ・他が自に転じる」ということになります。ここで重要なことは、自と他は「同時存在」ではないということです。自が他に転じたときには他のみがあり、他が自に転じたときには自のみがあるということになります。自は自、他は他でありながら、自他は互いに転じるのです、つまり回互という関係が現成するのです。

 

上記を理解する為には、どうしても「自」とは何か、「我」とは何か、「私」とは何か、ということを明確に理解していなければなりません。つまり、どうしても「悟り」が必要になります。次は、明治時代の落語家・三遊亭円朝が悟りを得た時の様子を如実に物語るものです。

 

「ある日、大和尚(西山禾山)が急に禅室に召されますので、とりあえず参りますと、大和尚が威たけだけしく『円朝』と呼ばれますので、『ハイ』と答えますと、『わかったか』とおおせられますゆえ、『わかりませぬ』と申し上げますと、大和尚は例の目をむき出しにして『汝、返事をしながら、わからぬか』と一喝され、また『円朝』と呼ばれるので、『ハイ』と答えますままに、豁然、省悟致しました。そこで私は始めて円朝が『ハイハイ』ではなく、『ハイハイ』が円朝である、と合点しました。」

 

釈尊が悟りを得る為に要した歳月は6年、道元禅師は10年、親鸞上人は19年ですが、その悟りは、まさに、この円朝の省悟(悟り)と同一なのです。

 

上来、言及してきたように、『ハイハイ』という「ハタラキ」が私であり、私が意識して『ハイハイ』といっているのではないのです。私というものがあって、その私が『ハイハイ』と言っているのではないのです。この『ハイハイ』は三昧において、一次的意識において、「直覚」で、「直接」に、「直に」応えているもので、二次的意識の関与はないのです。私たちはこの『ハイハイ』の後、これを反省して、「私が『ハイハイ』と答えた」と認識を構成をしているのです。私たちが一次的意識から二次的意識に移行する時、私と世界という相対的世界が現れるのです。

 

更に、単純な例を挙げれば、道を歩いていて、知人と出会って、互いに「こんにちは」と挨拶を交わす時、そこには殆ど二次的意識の働きはありません、無意識の意識で応えている筈です。このような状態のことを「回互」といい、「相即相入」といいます。自と他は厳然と存在していますが、自は自、他は他で存在していますが、自と他は互いに転じ合い、回互するのです。自と他は決して対立するものではないのです。「無対立の対立」なのです。(つづく)