悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(21)

カントは、道徳とは「汝〜すべし」という「定言命法」に従うことだといいましたが、一体、この「定言命法(絶対命令)」なるものが何処から出てくるのでしょうか、「彼方からの声」や「良心の声」といったところで、何の答えにもなっていません。

 

仏教における、善悪の倫理的判断の根拠は、「一次的意識」の知情意の総合的意識、つまり「一次的意識」に於ける「人格的意識」にあります。一次的意識に於いて、知(般若)は、「無分別の分別」をするだけで、倫理的判断は下しません。一次的意識に於ける意は、やりたいかやりたくないかという欲求を意識しますが、倫理的判断は下しません。一次意識に於ける情は、美か醜かを識別するだけで、善悪の判断を下すことはありません。従って、一次的意識に於いては、行いたいか否かの行為的意識と美か醜かの美的意識があるだけで、所謂善か悪かの倫理的判断はありません。つまり、所謂道徳的判断(二次的意識の判断)は、一次的意識の行為の意識と美の意識を根拠として成立するということになります。やりたいと欲し、美しいと感じるところに善の根拠があるということになります。このことは、とりもなおさず「ハタラキ」が「ハタラキ」をして「ハタラカ」しめるということを意味しています。

 

三島由紀夫は『文化防衛論』・「国民文化の三特質」において、次のように述べています。

「「菊と刀」のまるごとの容認、倫理的に美を判断するのではなく、倫理を美的に判断して、文化をまるごと容認することが、文化の全体性の認識にとって不可欠であって、これがあらゆる文化主義、あらゆる政体の文化政策的理念に抗するところのものである。」

 

「倫理的に美を判断するのではなく、倫理を美的に判断して、」とは作家らしい表現ですが、短い文の中に、見事に上記の意味が表現されています。

 

今日、フランスの「シャルリー・エブド」という雑誌が、溺死したシリア難民の幼児を風刺する画像を公開したというニュースがありました。その風刺画には幼児の遺体の近くに「ゴールはすぐそこ」「マクドナルドのハッピーセットもあるよ」と看板が立てられています。

 

一体、これが美しく、行いたい行為なのでしょうか。「言論の自由」の言論は二次的意識の知(思惟)によるもので、「知の自由」を意味していますが、知は善悪を判断する根拠を持ってはいません。このような深刻な倫理の喪失は、「知による情意に対する越権」に由来するものです。これが「ロゴス中心主義」の「主知主義者」が陥る不可避的な陥穽なのです。日本ではこの「主知主義者」のことを「リベラル」といいます。

 

「知のファシズム」に覆われた今の日本に必要なことは、大人も子供も、道徳教育ではなく「体験=三昧」を通した「情操教育」なのです。(つづく)