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悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(17)

仏教では、三昧のことを「定」あるいは「正定」ともいいます。仏道修行とは三学(戒・定・慧)、あるいは六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧=般若)を修することですが、修行の核心は定=正定=禅定と慧=智慧=般若にあり、定と慧は一等(定慧一等あるいは定慧不二)すなわち「定のところに慧(ハタラキ)がハタラク」「三昧のところに般若(直覚というハタラキがある」ということを体得することです。

 

親鸞上人の主著『教行信証』の『証巻』の冒頭において、次のように表現されています。

 

「謹んで真実の証を現せば、則ちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。即ちこれ必至滅度の願より出たり、また証大涅槃の願と名づけるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の郡萠、往相回向の心行を獲れば、即時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る。」(原文省略筆者訳) 正定聚:正定の衆、正定のともがら、滅度:涅槃、浄土往生

 

親鸞上人は、上の後半部分において「凡夫往相回向の信行(信じて念仏を称える)を行えば、即時に大乗仏教の「正定」聚(必ず往生することが決まっている状態)に入る。」と主張しているのです。

 

全く同様のことを道元禅師は次のように述べています。

 

『正定是法明門得無散乱三昧故』(正定は是れ法明門なり,無散乱の「三昧」を得るが故に) 法明門:真理の門 無散乱:無散乱心、意識統一

 

ということで、要は、正定=三昧=浄土=彼岸ということになり、私たちが三昧に入っている状態が正定であり、その正定という場が浄土・彼岸ということになります。そして、正定という場に於いてハタライている知が般若という直覚・自己同一知ということになります。三昧に入っている状態はハタラキのみであり、そのハタラキをハタラキ自身が自知することが般若という自己同一知ということになります。

 

あの世(死後の世界)と浄土=彼岸とは峻別すべきです。しかし重要な点は、両者は地続きになっているということです。私たちは生きて悟って浄土に入るのです。そしてその浄土は死後の世界と繋がっているのです。

 

以上が仏教(悟り)を理解する上で最も重要な要諦中の要諦です。(つづく)