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悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(9)

上来をまとめると次のようになります、

 

第一段

「色の世界」「客観界」「意識された世界」「意識の対象界」「物象化された世界」「物の世界」「自然界」「所の世界」(所とは能所の所)

第二段

「空の世界」「主観界」「意識する世界」「意識の作用界」「物象化する世界」「心の世界」「精神界」「能の世界」(能とは能所の能)

第三段

「空即色の世界」(空にして色の世界)「主客未分の世界」(主にして客の世界)「作用にして対象の世界」、「心にして物の世界」「精神界にして物質界」「能即所の世界」 注:即=「AにしてB」「AでありながらB」

 

師匠は弟子に或る物(何でもかまいません)を渡そうとして、次のように仕掛けました、

師匠「これを無手で取れ」

弟子「無手で渡せ」

この会話で、師匠は弟子が悟った事を確認し、長年の苦労(師弟双方の)が実ったことに至極満足したということです。

 

「無手」とは色である手を肯定し、無で否定しています、手にして手にあらず、つまり色即空です、「取れ」「渡せ」とは主客合一のところにハタライテイル「ハタラキ自体」を意味しています。このハタラキ自体を直覚することが悟りです。ハタラキ自体は対象化できません、相対知・分別知では知る事が出来ません、直覚・直観する以外にありません。

 

師匠「朝飯を食ったか」

弟子「はい、済ませました」

師匠「それなら、食器を片付けなさい」

 

師匠は弟子の「ハタラキ」を「促している」のです。百尺竿頭を100歩まで来ている弟子であれば、熟した柿が落ちるように、ハッと気がつき=直観することで、悟ることが出来るのですが、未達の弟子は何のことやら全くわかりません。

 

「喫茶去」(茶でも飲んでお行き)

これも上と同様、「ハタラキ」を促しているのです。

 

師匠「おい」

弟子「ハイ」

師匠「おい」

弟子「ハイ」

師匠「わかたか」

弟子「よくわかりました」

師匠「どうわかたか」

弟子「ハイが私で、私がハイではないことがわかりました」

 

弟子は確かに悟ったのです、私という存在があって、その存在としての私がハイと応えているのではないということがわかったのです。「ハタラキ=私」(行為と存在の一致=事行)ということがわかったのです。ハタラキという人間の本性=仏性を直覚したのです、すなわち仏性を見たのです、「見性」したのです、悟ったのです。ちなみに、私たちのハタラキとは私たちの命のことです、見性とは命を直覚することに他なりません。「実存主義」が命の充足を求めるものであるとするならば、仏教は2500年の歴史をもつ「実存主義の元祖」ということができます。仏教は、私たちの普通の知(相対知・分別知)によっては決して達することの出来ない、百尺竿頭を更に一歩を出たところに展開する「命の世界」に誘うのです。(つづく)