悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(5)

悟るということは、要するに、私たちは「客観界」「意識された世界」「意識の対象界」に住んでいるという生来(生まれた時から)の思い込みを反転させて、「主観界」「意識する世界」「意識の作用界」に住んでいるということに気づくだけのことです。私たちは実際にはリアルな世界に生きながら、それとは気がつかず、バーチャルな世界(倒錯した世界)に生きているのです。私たちは自らが描いた作品の中に生きているのです。

 

私がここで「ハタラキ」(作用・活動・力・エネルギー)と記述するとき、「ハタラキ」を対象化して述べているのではありません、主観的に述べているのです。しかし読者は読者の思惟作用(思惟のハタラキ)の対象として理解しているのです、つまり客観的に理解しているのです、「立場」が全く違うのです。ここに(私が)仏教(悟り)を伝えることの難しさと、(読者が)仏教を理解することの難しさがあります。この決定的断絶をいかに超克するか、それは読者の悟りという体験(実践)にかかっています。悟りは論理的思惟によっては決して得られるものではありませんが、(今の私たちにとって)論理的思惟をたよりに追求する以外にありません。論理的思惟の果てに、思惟を超越する以外にありません。「百尺竿頭更進一歩」なのです。従って私としては、徹底的に、読者を思惟の果てに誘い、読者の「更進一歩」を促すことが使命だと思っています。

 

「喫茶去」

これは中国唐代の禅僧・趙州従念の「真言(覚者・仏のことば)」です。「お茶でもどうぞ」という意味ですが、その真意・神意は「ハタラキを促す」所にあります。茶を喫するというハタラキ・行為を促しているのです、つまり主観の把握を促しているのです。私がハタラクのではなく、「ハタラクことが私である」という自覚を促しているのです。因に、この「喫茶去」は茶道の理念として、東山時代の珠光、能阿弥を経て、桃山時代の紹鴎、利休に至って大成されることになります。利休は「茶道の極意とは?」と問われて、「只喫茶」(ただ茶を飲むこと)と答えています。そしてさらに、この「ハタラクことが私である」という認識は、西田幾多郎の「事行」すなわち「行為即存在」として西田哲学の核心になっています。(つづく)