悟りの証明

残日録

人権主義・偽善の思想(4)

社会契約思想に基づく人権思想は、私たち日本国民に、他人に害を与えない限り、全くの自由と権利を与えて、国民を「人格なき神」に仕立て上げてきました。

 

「この国民が保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。」憲法第十二条

 

これは、一見、誰でも納得のいく条文ですが、実地に於いては「公共の福祉」という文言は全く「死語」になっています。この「公共の福祉」の意味は、単に他人を害してはいけないという意味(一元的内在制約)で、他人に害を与えない限り、何をやっても全く自由ということを意味しています。私たちは、三大義務(教育・勤労・納税)を果たしさえすれば、他人に害を与えない限り、無制限の自由と権利を有しているのです。これがまさに「人権神授説」「天賦人権説」というもので、人間が神になりかわったということを意味しています。しかし、この神は「理論理性」によって考えられた神なので、「実践理性」は無視され、倫理も無視され、「人格」も無視された、「人格なき神」ということになります。私たちが住んでいる社会は「人格なき神」が荒ぶる社会なのです。

 

この「人格なき神」の困ったところは、「悪いことはしない代わりに、善いこともしない」という倫理(道徳)が欠落した点にあります。私たちは、元東京都知事舛添要一氏が「違法性はない」と主張しましたが、失脚に追い込みました。私たちが都知事に求めたものは「ただ悪いことをしない」ということだけではなく、「善いことをしてもらいたい」という倫理的期待があったからです。私たちは都知事に「人格」を求めていたのです。悪の反対語は善ですが、悪を行わないことを善とは言いません、善を行うことが善なのです。自由や権利だけを叫ぶ人権主義者が幅をきかせる現下の状況では、桝添氏を失脚に追い込んだ私たちが、やがて桝添氏と同様の存在になってしまう恐れがあります。

 

「私の勝手でしょう」という子供の自由・権利の主張に対して、「勝手ではない!責任と義務がある!」と諫める大人は少なくなりつつあります。なぜなら、人権主義者の「子どもの権利」という声が聞こえてくるからです。私たちは紛れもなく「人権ファシズム」の時代に生きているのです。

 

「人権ファシスト」は例外なく「主知主義者」「リベラル」で、理論理性を駆使して一般的で普遍的な「あるもの=存在(ザイン)」を追求し、「真偽」を明らかにしようとしますが、私たち普通の人間は、情意を重んじて「あるべきもの=当為(ゾルレン)」を追求し、「善悪」の判断に拘り、倫理を重んじます。主知主義者の誤謬は「真偽」と「善悪」を混同することにあります。このブログで吉本隆明大江健三郎を批判してきましたが、彼らは第一級の知識人であるにもかかわらず、真なるものが善であると思い込んでいて、真なるものは必ずしも善ではないということを知らないのです。例えば、原爆やクローン人間は科学的な「真」ですが、「善」である筈がありません。「理論理性」による「真」と「実践理性」による「善」とは全く似て非なるものです。(つづく)

人権主義・偽善の思想(3)

理想的民主主義は理想的人格を具えた個人(国民・市民・人民)の集団によって成立します。理想的な社会は理想的な個人がいてはじめて成り立つのです。人権を主張する権利には「人格」という義務が伴います。人権思想に多大な影響を与えたルソーによれば、「一般意志」は常に「公共の利益」を目指す「公的人格の意志」であとしていますが、「公的人格の意志」である一般意志については、ただ啓蒙が必要であると言っているだけです。つまり、ルソーは自由・平等という権利を主張するにとどまり、義務である「人格の陶冶」については何もふれていません。ルソーは何故人格について掘り下げなかったのか。それは単純に、ルソー自身が人格破綻者であり、掘り下げることが出来なかったからです。ルソーの「社会契約説」は全くの「片手落ち(敢えて差別用語を使います)」の説と言わざるを得ません。

 

共産党は「国民あっての国家である」といっていますが、これは全くの間違いです。「国民あっての国家・国家あっての国民」という矛楯の自己同一のところに真の民主主義が成立します。(このような論理を、仏教の「即非の論理」といいます)

 

数年前、片山さつき氏がつぎのようなツイートをして炎上したことがあります。

 

『国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような「天賦人権論」をとるのはやめよう、というのが私達の基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!』

 

因みに、このツイートの後半部分は、ジョン・F・ケネディ大統領就任演説にヒントを得たものと思われます。

 

「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。」

 

この片山氏のツイートに対して、小林節慶大名誉教授が「社会契約説」の一般的解釈の立場から、

 

「個々の国民が個性を持った存在であり、かつ幸福に生きる権利を持っているという考えは普遍的な考え方だ。」

 

と主張して片山氏を批判していますが、このは全くナンセンスな批判でしかありません。小林氏の主張は権利の主張に止まり、「義務」については何等の言及もありません。これが日本の憲法学者のレベルなのです。

 

自然法」→「自然権」→「人権」は社会秩序を危うくする危険な思想です。「人権」は「自然権」に由来し、「自然権」は「自然法」にその根拠を置いています。「自然法」に由来する「自然権」とは、「国家によって与えられた実定法上の権利ではなく,国家成立以前に人が生まれながらにして有するとされる権利」「事物の自然本性から導き出された永遠普遍の権利」あるいは「神に由来する権利(天賦人権説)」ということになっていますが、その実、私たちの「理論理性」による「実定法」に過ぎません。

 

自然法」なるものは「ローマ法」にその起源があります。「ローマ法」はローマ市民の法でしたが、ローマが他国を征服したとき、ローマ人は他国民を律するために「ローマ法」をそのまま適用することを良しとしませんでした。そこで「ローマ法」から他国民にも共通の法を選んで、すべての被征服国家に共通の法体系である「万人法(ユース・ゲンテイウム)」を制定しました。「万人法」は、ローマ人にのみ適用される「市民法(Jus civile)」に対し、ローマ人と非ローマ人および非ローマ人相互間の法として、主に「商取引・契約」における柔軟な法として誕生したのです。その後「万人法」はストア哲学によって理論的に洗練され、すべての法律の根柢となる自然法の模型となったのです。「自然法」の考えでは、神に由来する人間の理論理性は神意を把握することが出来、それによって我々を支配する法則を定めることが出来、これらの法則が永遠不変のものと考えたのです。つまり、ここで神と人間がすり替わってしまったのです。神に代わって人間を理念とする西洋近代がここから始まったのです。人間は自らを神の代理とすることで「完璧な人間」という重荷を背負うことになったのです。「自然法」とは「完璧な人間」を前提(仮定)とした実定法なのです。

 

陶冶なき人格が「人権」を主張するとき、そこにはただ、社会の混乱があるのみです。(つづく)

人権主義・偽善の思想(2)

先のブログで、「人権主義」は「錯誤の思想」「偽善の思想」であり、その弊害の究極するところは人間のロボット化であり家畜化であるということを述べました。

 

韓国は日本に対する「ルサンチマン国家」であり、日本にとっては「反面教師」として重要な隣国ですが、「人権」が絡んだ両国の問題として「慰安婦問題」があります。「慰安婦問題」に関する韓国の戦略は、この問題を「女性の人権問題」として、日韓の二国間問題を越えた、「国際的な問題」「グローバル・イシュー」として、国際社会に訴えて、国際世論のバックアップを得ようとしている点にあります。この点において、日本は不利な立場に立たされています。「人権問題」となると、時空を超えた問題、すなわち国境を越えた国際問題となり、しかも「時効」のない問題となります。「時効」がないということは「事後法」の適用が可能であるということであり、未来永劫「ゴールポスト」を動かしながら決して問題解決しないというのが韓国の立場です。韓国としては、とにかく、問題を解決することなく、騒ぎを大きくして国際化し、恨みを晴らすとことで国民を情緒的に統一すると共に対日外交における自国の優位性を確保することを狙っています。

 

先日、「慰安婦問題に関する日韓合意」が成立しましたが、案の定、「不可逆の合意」にもかかわらず、見直しの動き、ゴールポストを動かそうとする動きが出て来ています。この動きを支える韓国側の考えはどのようなものか、おおよその想像はつきます。

 

1、日韓合意はあくまで主権国家間の合意で、人民主権の合意ではない。

2、慰安婦像の設置はウイーン条約に反するというが、国際法よりも国内法が優先するので問題はない。(国際法が優先すれば、国家の主権は犯され、国際社会そのものも成り立たない)

3、慰安婦像の設置は民間によるもので、主権在民の立場から、国家による行政介入は難しい 。よって像の撤去は出来ない。

4、国連委が日韓合意を見直すよう勧告している。日本政府は見直しの話し合いに応じなければならない。

5、韓国憲法裁判所は、韓国政府が慰安婦の賠償請求権に関し、具体的解決のために努力していなことは慰安婦の基本権を侵害する違憲行為であるとしている。

 

これは国内法と国際法の使い分けをしたダブルスタンダードで独善的な考えですが、重要なのは4で、韓国にしてみれば、とにかく、「問題を解決しない」で、大騒ぎしながら、未来永劫ズルズルと引きずっていくことこそが眼目なのです。当事者である存命の慰安婦高齢なので、近い将来「生き証人」が消えていきます。慰安婦像は「生き証人の代替」として、韓国の「永遠の慰安婦戦略」として不可欠な存在なのです。釜山の慰安婦像の撤去はあり得ますが、韓国国内は固より国際社会のおける慰安婦像は増え続けることでしょう。

この問題の抜本的な解決は容易ではありませんが、二三の案はないわけではありません。

 

第一案 人権主義者が依拠する「社会契約」を逆手にとる。

各国の憲法や法律は「社会契約」によって成り立っていますが、社会契約の当事者は国家と国民(人民)ではなく、あくまで国民間の契約で、この場合の国家や公益は単なる概念に過ぎず、実体はありません。従ってドイツの戦後処理の場合、ナチスドイツとは単なる概念であり、戦争責任は国家や軍隊にあるのではなく、あくまで具体的犯罪(個別案件)を犯した個人(国民)にあるとしています。従って、ドイツは国家として正式に謝罪したことはありません。社会契約論の立場では、国家(政府)の謝罪は見当違いであり、個人の犯罪があるのみです(個人の戦争犯罪は決着済み)。

 

第二案「慰安婦関連プロパガンダ禁止法」の制定。

韓国にとっての慰安婦問題は「女性の人権問題」ではなく、その名を借りた政治的プロパガンダであることは明らかです。この法の制定によって、国内的には、慰安婦問題で暗躍する人権活動家の偽善活動を封じ込め、騒ぎの沈静化をはかり、国際的には国連人権委その他の人権団体に対して真っ向から法律論争を仕掛けていくということになります。(つづく)

人権主義・偽善の思想(1)

2017.5.17 の産経ニュースによると、鳩山由紀夫元首相は、「日本列島は日本人だけのものではない」「日本列島はすべての人間のもの」等と言って、「地球社会」「お花畑」の夢を見続けているようです。一般には、この夢は突飛なものとして一笑に付しますが、人権主義者にとっては決して夢ではなく、論理的必然の帰結と考え、信じています。確かに「人権」というものを論理的に<中途半端>に考えてゆけば、「国民国家」は崩壊し、国境はなくなり、国家間の「戦争」はなくなり、みんな仲良し地球市民の「お花畑」が実現することになります、「人民主権」に徹すれば「国家主権」は消失してしまうからです。しかし<現実的に深く考えれば>、人間に民族意識、人種意識、宗教意識等があり、それらに基づく「文化」がある以上、国境はなくなることはなく、紛争もなくなることはありません。なぜなら、「文化」は国家や国民のアイデンティティーだからです。「文明」(経済・科学・技術等)は物質的なものなので普遍化・グローバル化しますが、「文化」は「精神的」「歴史的」「社会的」なものなので民族や国土に制約されるのです。多民族国家である米国は「地球社会」に近い国家ですが、トランプの出現によって逆行し始めています。EUも又「地球社会」に一歩踏み出している存在ですが、英国の離脱で後退してしまいました。

 

万が一、仮に、「地球社会」が実現したとしてもその社会は「お花畑」「地上の楽園」などではなく、「奴隷社会」「ロボット社会」となることは歴史が証明しています。共産主義思想は「資本主義経済が人間(プロレタリアート)を疎外する」という経済に基礎を置いた一種の「文明論」であり、人間の精神面=「精神文化」は除外されています。このことを洞察していた三島由紀夫共産主義から日本文化を防衛しようとして『文化防衛論』を著したのです。ソ連コルホーズ(集団農場)、ソフォーズ(国営農場)において過酷な労働を強いられた市民(人民)はまさに家畜以外の何ものでもありませんでした。中国においても、その薫り高い歴史・伝統・文化は「文化大革命」によって破壊され、アイデンティティーのない無機質な物質国家となり、人民(市民)もアイデンティティーをなくして「物欲」だけのロボットになりつつあります。中国人民は精神文化的存在から物質文明的存在へと「物質化」しているのです。共産主義は「唯物論」=「ただものろん」に依拠しているので、当然の成り行きなのです。人権思想(社会契約論)は歴史・伝統・文化を否定あるいは無視して「自然状態」から出立しますが、その誤りはまさにその「自然状態」を仮定することにあります。ルソーは「自然状態」を理想的な「お花畑」として、その「お花畑」を支える「原理」を明らかにしようとしました。ルソーの戦略は、まず先に、「理念」「理想」の世界すなわち「お花畑」を描き、その「お花畑」を支える原理を明らかにしたの後に、それを現実に適用しようとしたのですが、このようなアプローチは誤りであると指摘したのが同時代を生きたカントです。カントの『純粋理性批判』につぎのような一文があります。

 

「理性概念は、その名前からしてすでに前もって、それが経験内に制限されたくないということを示している。なぜなら、理性概念の関与する認識は、どのような経験的認識も単にそれの一部に過ぎないような認識(おそらくは可能な経験の全体、あるいは可能な経験の経験的総合)であり、もちろんいかなる実際の経験もそこでは到底完全には到達しないが、やはりそれに所属しているような認識であるからである。」

 

「理性概念」とは「理念」のことで、ここでは「お花畑」を意味します。理念は現実(経験・実践)に制限されない「自由」ということを示しています。何故なら理念・理想を求める「理論理性」の使用は経験的認識はもとより、いかなる現実的認識をもその中に飲み込んで、全くの非現実世界を創出してしまうからです。カントによれば、私たちは「理論理性」によって「理念」「理想」を追い求めますが、「理論理性による推理」=「お花畑」論は矛楯に陥り必然的に混乱をもたらすとして、「理論理性の限界」を説きました。「神の存在」「魂の不滅」人権論者が唱える「自由」は、要請されるが論証不可能として、このようなテーマは「実践理性(意志・感情経験)」に委ねるべきであると主張しました。

 

理性(論理理性)は地を離れて空を「自由」に飛び回り、山を俯瞰し、山を把握しようとします。一方、実践・経験(意志や感情)は決して地を離れることなく、山の中に居て山を把握しようとします。前者は「傍観」の立場であり、後者は「自観」の立場です。カントは、真の「倫理」は実践の立場、「自観」の立場においてはじめて成り立つと説いているのです。

 

仏陀は蓮華を座にしています。蓮華(蓮の花)は泥沼にしか咲かない花です。ドロドロとした人間の情念(実践・経験)あってこそ絶美の「善の花」が咲き出でるということを静かに訴えかけているのです。松本清張推理小説の巨匠ですが、その作品は単なる「犯罪推理小説」の域を超えています。人間の真実は犯罪事件という非日常において露わになります。殺人・傷害・強盗・誘拐・脅迫・詐欺・恐喝・暴行・強姦・ストーカー等の刑事事件には、負の動機(憎悪、恨み、復讐、絶望、性欲、etc.)すなわち「泥沼」と正の動機(慈悲=正義、犠牲、約束、同情、etc.)すなわち「蓮華」の種子が混在しています。例えば、夫が、不治の癌で苦痛にのたうち回る妻を、延命治療を選ばず殺人に及ぶとき、夫は自らが殺人罪に問われることを認識していながら自らを犠牲にして殺人という罪を犯すのです。そこには、確かに、「悲しい慈しみ」=「慈悲」=「蓮華」が在ります。松本清張はその「蓮華」を描きたかったに相違ありません。

 

「人権活動」は須く「慈悲」による「慈善活動」であるべきで、間違っても「政治活動」であってはならないのです。「政治活動」としての「人権活動」は偽善に過ぎません。人権活動家には「自由には責任」「権利には義務」という「単純な常識」を踏まえてもらいたいものです。(つづく)

理性の害悪(5)

この世に悪魔というものが存在するとしたら、それはマルクス以外にはあり得ません。マルクスに洗脳された、あるいはマルクスの思想を利用した、スターリン、レーニン、毛沢東、ポル・ポト、金日成、その他の共産主義国の独裁者達は、共産主義社会の実現のために反対派を大量虐殺し、国家を疲弊させ、国民の自由を奪っただけではなく、世界を東西に分断し、世界中の紛争の原因となり、その害毒は今尚厳然と存在し、未来の暗雲となっています。

 

マルクス主義の誤謬は少なくありませんが、分けても、決定的な誤謬は、その「目的設定」にあります。私たちは、何かを行う場合、そこには必ず「目的」というものがあります。行いの正しさはその目的の正しさいかんにあります。マルクスは「共産主義社会」の実現を目的とし、その内容は、この社会の中で生きる民衆こそ「各人は、能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」(ゴータ綱領批判』)「幸福」な民衆であるという、単なる「ドグマ」(独断的教義)を目的としました。

 

「各人は、能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ことが出来ることが私たちの幸福なのでしょうか。「何の目的もなく」能力に応じて働き、必要に応じて受け取ることが幸せなのでしょうか。仏教では、次のように、人間の幸せ(人間の生きる意義)とは「自己実現」あるのみと説いています。

 

「この世で、自らを島とし、自らを頼りとして、他人を頼りとせず、法を島とし法を拠として、他を拠とせずにあれ、斯くして、私は自己に帰依することを成し遂げた。」(大パリニッバーナ経)

 

私たちには「個性」があります。最近のDNA研究によれば、同じDNA型の別人が現れる確率は4兆7000億人に1人ということになっています。私たち一人一人は「特殊」であり「個物」(独立自全の存在)そのものです。個性ある私たちは、決して「一般」には還元できない、その唯一の個性を生きるのです、自己実現を生き、自己実現に生きるのです。

 

私たちには「欲求」があり、私たちは欲求を満たすために生きている存在であると言うことが出来ます。アメリカの心理学者アブラハム・マズローの『欲求段階説』によれば、私たちの欲求には、「生理的欲求」→「安全の欲求」→「社会的欲求」→「承認の欲求」→「自己実現の欲求」→「自己超越の欲求」等があり、これらの欲求は「生理的欲求」から始まって、これが満たされると順次上位の欲求に移って行き、最後に「自己超越の欲求」が出てくるということになっています。しかし実際には、「自己実現の欲求」は既に「生理的欲求」の段階で芽生えていて、これら六種の欲求のすべては「自己実現の欲求」と見ることができます。例えば、最下位の「生理的欲求」の段階でも、親が自らを犠牲にして最後の食を子に与えるというような自己実現もあります。時には窮極の自己実現として、自らの死を意味することもあります。

 

私たちの幸福を考える時、主観と客観の両面から考える必要があります。幸福を客観的に考えれば、衣食住という物質が必要なことは言うまでもありませんし、これを政治的に表現すれば「最大多数の最大幸福」という量的(唯物論的)な表現になります。一方、幸福を主観的に考えれば、「自己実現」という目的がなければなりません。動物と私たち人間を分かつものは、衣食住という物質に満足することなく、最後の一呼吸まで、自己を実現していくところにあるます。

 

理性が求めるものは、誰もが納得する「一般的」なものでなくてはなりませんし、一般的であるためには「主観を排除」して、「客観的」でなくてはなりません。理性の陥穽はまさにこの「主観の排除」にあると認識した上で、理性を使うことを知らなければ、マルクスのような根本的な誤りを犯してしまうことになります。

 

共産主義から日本文化を防衛しようとした(『文化防衛論』)三島由紀夫の「主体なき理性」(=主観なき理性)という一言は、マルクス主義を瞬殺し、理性を職業とするリベラルの知識人、言論人、ジャーナリスト、政治家等の言説を黙殺して余りある力を持った「至言」であり、芸術家ならではの「美しい言葉」です。(つづく)

理性の害悪(4)

近代哲学の完成者と言われるヘーゲルの「理性」もまた、「全体主義」と「泡沫のような個人」という世界を描きました。ヘーゲルは「精神と自然」「心と物」というデカルト以来の二分された世界を「時間」すなわち「歴史」を導入することによって、人類の知の累積の果てに、精神への一元化を企てました。東洋→ギリシア・ローマ→ゲルマン→ヘーゲルが生きていた時代、という悠久の世界史において、人類は主観(意識の作用)と客観(意識の対象=自然や社会の一切)との一致(真理)を求めて、矛楯の統一(止揚)という動的認識(弁証法的認識)の「意識の経験」積んで行き、終には、「絶対精神」「世界精神」に至る、というのがヘーゲルの「壮大な歴史物語」の骨子となっています。しかし、もし、これが史実とするならば、一体、誰がこれを知るのか。それはヘーゲル自身以外ではあり得ないと言うことになります。これはまさに、独りよがりの「理性の傲慢」であり「理性の暴走」以外の何ものでもありません。また、もし、この世界史が真実であるとするならば、人類の一人一人は、「生の意味」も何もわからず、自らの「意識の経験」(人生)を「絶対精神」「世界精神」の実現に捧げると言う、まさに「歴史の狡知」に翻弄される泡沫のような存在となってしまいます。ヘーゲルの世界史に於いては、人間の自由とか権利などと言うものは全く存在しないことになります。

 

ヘーゲルは「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と言う自らの言葉に従って、自分が到達した「世界精神」という「理性的なもの」を現実のナポレオンに当てはめて、ナポレオンを世界精神の体現者と見なし、自説の正しさを検証しようとしました。しかし現実のナポレオンはヨーロッパ戦線で、諸国民の反発をかい、かえって侵略者となってしまい、ヘーゲルの検証は失敗しました。次に、ヘーゲルはその検証の対象をプロイセン王国に求めましたが、現実のプロイセン王国も進歩的な啓蒙運動を弾圧するような、世界精神の顕現とは程遠い存在でした。それで、結局、「理性的なものは現実的でなく、現実的なものは理性的でない」ということを自ら証明することになってしまいました。

 

ヘーゲルは、世界史を知る絶対者→世界精神→絶対精神→国家という理論の展開によって「絶対君主制」「全体主義」「独裁政治」等を正当化してしまいました。このようなヘーゲルの「理性の害毒」は当時のヨーロッパを汚染しただけではなく、その後も、世界中を汚染しました。(つづく)

理性の害悪(3)

理性の害悪を知るにはヨーロッパの理性(哲学・思想)の歴史とその理性による惨劇を明らかにしなければなりません。ヨーロッパの理性主義・主知主義の源流を辿れば、古代哲学の完成者といわれるギリシアのアリストテレスに行き着きます。アリストテレスは私たち人間の営為を、観照(テオリア)・実践(プラクシス)・制作(ポイエシス)に分け、それぞれ理論学(形而上学)・実践学(政治学・倫理学)・制作技術(アート)という学問分野を設定しました。そしてアリストテレスは観照・理論学すなわち理性を優位に置き、ヨーロッパを理性主義へと方向づけました(因みに日本は古来一貫して実践主義=「言挙げせぬ」「不立文字」)。しかし、ヨーロッパ中世における理性はキリスト教の神の存在証明に利用され、「スコラ哲学」を支えましたが、理性が表舞台に出ることはありませんでした。中世の終わりは、まさに「理性の復権」を意味しており、それはデカルトによってもたらされました。デカルトはまさに理性至上の「大陸合理論」(大陸=イギリスを除いたフランス、ドイツ、イタリア、その他)の元祖的存在でした。デカルトの主著『哲学原理』には次のような一文があります。

 

「自然の光、すなわち神から私たちに賦与された認識能力の捉える対象は、それが自然の光によって捉えられるかぎり、換言すれば、明晰判明に知覚するかぎり、ことごとく真である。」

 

この一文は、まさに神になりかわった人間、神の座に就いた人間を意味しており、神=「自然の光」=認識能力=理性という、人間の理性の絶対視を意味しています。これは「天賦人権説」そのものであり、後の「自然権」へと展開して行くことになります。

 

18世紀になると、人類の未来に決定的な悲劇をもたらす三人の哲学者、ルソー、ヘーゲルマルクスが登場します。

 

ルソーは、ヨーロッパの激動期を生き、フランス革命の思想に多大な影響を与えた哲学者でした。ルソーは「社会契約」の必要性を説き、その内容は「一般意志」という理念によって貫かれています。「一般意志」とは、私たちの内にある「公共の意志」を意味し、「利己の意志」である「特殊意志」の対立概念です。ルソーの社会契約説の骨子は、「一般意志としての個人」が、「一般意志としての公共の意志」と契約を結ぶことによって、社会(国家)の繁栄と秩序を確立すると共に、個人としての自由や権利を確保しようとするものです。しかし、よく考えてみると、「個人の一般意志」=「公共の一般意志」という「等式」は唯一ではなく複数あるということです。どのような社会(国家)にも保守と革新、右派と左派があり、現実には最低二つの一般意志があり、二つの等式があるということになります。従って、ここで、「理想的な」一つの等式を選ぶか、「現実的な」複数の等式を選ぶか、選択の問題が出て来ます。理性は常に理想を求めるものです、従って当然、唯一の等式を選ぶことになります。しかし、そこには重大な落とし穴が待ち受けています。それは「全体主義」という陥穽です。まさに、これこそ「理性の害悪」なのです。

 

ロベスピエールは、ルソーの思想を現実に落とし込もうとした政治家で、唯一の「個人の一般意志」=「公共の一般意志」という等式、すなわち「一般意志の一元化」によって理想的な社会(国家)=全体主義社会(国家)を目指しましたが、その具体的手法は、啓蒙と洗脳による「人間改造」と人間改造が不可能な場合には「粛正」でした。ロベスピエールは1794年に行った演説において、次のように言っています。

 

「人民政府の活力は、徳性と恐怖の双方である。徳性なくして恐怖は有害であり、恐怖なくして徳性は無力である」

 

因みに、ここで言っている「徳性」とは、革命政府が掲げる「一般意志」を理解し、それを自らの「一般意志」として、行動を共にすることであり、「恐怖」とはギロチンによる公開処刑を意味しています。ギロチンや絞首刑といった正式の処刑とそれ以外の処刑(私刑)による犠牲者は合計4万人以上と言われています。(つづく)