悟りの証明

残日録

悟りの証明(74)

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直観:
主客が未だ分かれない、知るものと知られるものとが一つである、現実そのままの、不断進行の意識である。

思惟=反省(経験を反省して比較し判断する):
直観の進行の外に立って、翻って不断進行の意識を見た意識である。ベルグソンの純粋持続を同時存在の形に直して見ることである、時間を空間の形に直して見ることである。 

自覚:直観を知る意識、「般若」
自己が自己の作用を対象として、これを反省すると共に、このように反省すると言うことが直に自己発展の作用である、かくして無限に進むのである。


悟りの証明(73)

悟りを得るためには、私たちは日常の行動において、私たちの微細な意識の動きを冷静に観察する必要があります。

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私たちの意識は「三昧1/思惟1/三昧2/思惟2/三昧3/思惟3」というように三昧と思惟が交互に動いて行きます。三昧は思惟によって際断(切断)されながら次の三昧へと続いていきます。これを道元禅師は「前後際断」と表現しています、『正法眼蔵』「現成公案


で次のように述べています。

 

「たきぎははひとなる、さらにかへりてたきぎとなるべきにあらず。しかあるを、灰はのち薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、後あり先あり。」

(薪は灰となる、さらに返って薪となることはない。これを、灰は後薪は先と見てはいけない。知るべきである、薪は薪の「真相(ありのまま)」「三昧」に於いて、先があり後がある。三昧そのものには前後があるといっても、その三昧の前後は(思惟によって)際断されている。灰は灰のありのままにおいて、後があり先がある。)

 

また、道元は前後際断の様子を「赤心片々」と表現しています。

 

「赤心片々といふは、片片なるはみな赤心なり、一片両片にあらず、片片なるなり。荷葉団団団似鏡、菱角尖尖尖似錐、かがみににたりといふとも片片なり、錐ににたりといふとも片片なり」

(赤心片々というのは、片々はみなそれぞれが赤心「赤裸々な心」である、一片二片と数えられるものではない、一片一片がそれぞれ個物(全一の存在)である。蓮の葉はどれも円く、円いことは鏡のようである、菱の葉は錐のように尖っている、鏡に似ているといっても片々それぞれが全一の存在である、錐に似ているといても片々それぞれが全一の存在である。)

 

三昧の世界は時空が一体となった「時空一如」の全一の世界ですが、思惟はこの「時空一如」の世界を「空間」の世界に「空間化」するのです。私たちが思惟するときには、時を止めて時の平面に、誕生以来の全経験(空間化された全三昧の記憶)を同時存在の形に直して並べて見るのです。これが私たちの「所謂世界」というものです。三昧自体には前後がありますが、他の三昧と比較して、いずれが前でいずれが後かを判断するには、三昧を空間化し、同時存在の形にして比較しない限り、前後関係を定めることは出来ません。

 

NB

思惟=反省(経験を反省して比較し判断する):

直観の進行の外に立って、翻って不断進行の意識を見た意識である。ベルグソンの純粋持続を同時存在の形に直して見ることである、時間を空間の形に直して見ることである。 

 

因みに、西田幾多郎はこの「前後裁断」を「非連続の連続」と表現して、「西田哲学」の根幹を成している最も重要な概念です。

 

(つづく)

悟りの証明(72)

先に述べたように、「座禅」は「一時の仏」になることです、「一時の仏」とは「一時の仏性」になることです。仏性とは宇宙のハタラキ・動き・力・エネルギー(ブラフマン)が私たち人間に降臨し「アートマン」となって私たちの「意識のハタラキ」(意識作用)になるということです。ここで注意なければならないことは、この「ハタラキ」は思惟によって考えられた働きではなく、座禅によって「ハタラキそのものになる」ということです、「ハタラキそのものになる」とは「ハタラキに埋没する」ということです、「ハタラキに埋没する」とは「ハタラキも無く」なって「定」すなわち「絶対無」になるということです。

 

しかし、鈴木大拙によれば、「座禅」は「定」であって、「慧」を得る手段であるといっています。そこで私たちは「禅堂場」から出て、日常生活に戻るということになります。実際、悟りは日常生活の些事を契機に「ハッと気が付く」ものです。

 

次のエピソードは、「悟りの証明(25)」で既に述べていますが、明治時代の落語家三遊亭円朝が悟りを得た「瞬間(の三昧)」の様子を如実に物語っています。

 

「ある日、大和尚(西山禾山)が急に禅室に召されますので、とりあえず参りますと、大和尚が威たけだけしく「円朝」と呼ばれますので、「ハイ」と答えますと、「わかったか」とおおせられますゆえ、「わかりませぬ」と申し上げますと、大和尚は例の目をむき出しにして「汝、返事をしながら、わからぬか」と一喝され、また円朝と呼ばれるので、「ハイ」と答えますままに、豁然、省悟致しました。そこで私は始めて円朝が「ハイハイ」ではなく、「ハイハイ」が円朝である、と合点しました。」

 

円朝が『ハイハイ』ではなく、『ハイハイ』が円朝である」とは絶妙の表現ですが、「円朝がハイハイ」ということは既に「ハイハイ」を思惟で反省し論理的に構成して表現しているのです。一方「ハイハイが円朝である」ということは「ハイハイというハタラキそのものが円朝」であるということを「自覚」したのです。大和尚の「円朝」という問いに、間髪を入れず、全く思惟を挟まず、直に「一瞬の三昧」である「ハイハイというハタラキそのもの」を、思惟ではなく「自覚」したのです。「自覚」すなはち「作用の作用」が作用を対象として認識したのです。自覚においてはハタラクことが知ることになります、すなわち「行即知」となります。

 

以上がわかれば、既に「悟りを得た人」すなはち「覚者」になります。上記のように悟りの体験とは実に簡単明瞭です。円朝の場合は師匠の導きがあって、悟りを得ることが出来ましたが、師なくして悟ることも可能です(無師独語)。師なく座禅なくして悟ることも可能です。上記を徹底的に考え、理解して、悟りの契機を待てばいいのです、悟りは向こうの方からやって来ます。悟りとは「三昧」「純粋経験」「真の現実」を自覚することです。この自覚は「行即知」、すなわち行うことが知ることなので、円朝の「ハイハイ」のように具体的経験を経てはじめて「体得」されます。

 

世の中には自分は悟りを得たと自認している人がいますが、本当に悟りを得たかどうか誰が、どのように判断するのでしょうか。師に師事して師に証明してもらえばいいではないかうということが考えられますが、果たして、その師は本当に覚者なのかが問題になります。オウム真理教 麻原彰晃に騙された頭脳明晰な若者たちがいたという事実を考えれば、「悟りの証明」はそう簡単なことではないということがわかります。

 

それでは一体、どうしたら「悟りの証明」が得られるのでしょうか。答えは唯一、「公案を解く」ことです。悟りを得たら必ず「公案」が解けるようになります、そして、難しい仏教用語ではなく、今の言葉で説明出来るようになります。(つづく)

 

 

 

悟りの証明(71)

仏教、特に禅には「座禅」がつきものですが、何のために座禅をするのでしょうか、座禅の目的は一体何でしょうか。

 

隻手の音声を聞け

鳴らぬ前の鐘の音を聞け

これは何だ、言っても言わなくても三十棒(をくらわす)

この拄杖がわかるか、それがわかったとき禅の修行は終わる

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや親鸞の至言)

 

これらの公案や至言はいずれも「無分別の所」「分別以前の所」「分別が依って立つ所」すなわち「三昧」「一次的意識」「純粋経験」を示唆し、この無分別を認識すること、すなわち、「無分別の認識」「無分別の分別」「無意識の意識」に導こうとしているのです。

 

私たちは私たちの「認識の原点」「認識の根拠」であり、認識が依拠する「三昧」を知ることなく、三昧を反省し、判断し、思惟し(思惟は判断の連続)、私たちの所謂世界を構築しているのです。私たちが認識している所謂世界は認識の「対象界」であり、肝心な認識の「作用界」は除外されているのです、換言すれば、主観抜きの客観だけの世界なのです。因みに、三島由紀夫はこれを「主体なき理性」と称してリベラル(特に共産主義者)を批判しています(もっとっも、三島にこのような理解があったかどうかは知りませんが)。三昧においては主観と客観が一つになっており、作用即対象、主観即客観、主客未分、「空即色」ということになります。

 

私たちは「座禅」に没入することで、三昧すなわち無分別の世界に入ります。しかし、これは座禅の初心者にとって容易なことではありません。「分別意識」「二次的意識」「一般的意識」「日常的意識」すなわち雑念(知覚、思惟、想像、連想による)が次々と湧いてきて、これを払拭することは容易ではありませんが、(出来れば日頃から)無心・無我になるのだという「意志」を堅持し、湧き上げって来る雑念には付き合わないで無視することで、意志が自ずと導いてくれて、いつしか、「無心」「無我」になって行きます。当初、この無心の状態は短時間(数秒~数分)ですが、修行を積むことでその時間は長くなって行きます。因みに、座禅道場での座禅の時間は、一本の線香が燃え尽きる時間(一柱)、約40分となっています。

 

意識を客観視すれば、意識は常に動いていますが、意識の動きそのものに成りきり、動きしかなくなれば、動きというものはなくなります。座禅は、動いて止まない雑念に付き合わないことで、次第に意識自体に成りきって行き、ついには静かな安楽境に達します。この様子は次の「雪山偈」にうまく表現されています。

 

諸行無常 (諸々の物事は常に変わり行く)

是生滅法 (生じたものは滅するものである)

生滅滅己 (生したり滅したりすることにかかわらなければ)

寂滅為楽 (静かな安楽に至る)

 

仏道修行は布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という「六波羅蜜」に尽きますが、特に重要な修行は「禅定」と「智慧」です。「禅定」とは禅と定が一緒になったもので、「禅」は禅那の略で、禅那は梵語「dhyana」の音写、「定」は「dhyana」の漢訳ということで、要するに、「dhyana」=禅那=禅=定ということになります。「三昧」は梵語「samadhi」の音写で、その意味は「定」ということなので、結局、「dhyana」=禅那=禅=定=三昧ということになります。従って、座禅の目的は三昧に入り「定」を得る(三昧に入ることが定)ということになります。

 

「定」とは「無意識」「無分別」「無心」という意識(心)の状態で、知覚・思惟・想像・連想などの所謂私たちの「普通の意識」「反省的意識」「二次的意識」(意識=認識=知、意識とは何ものかを知る意識)を除去した意識ですが、その「定」という意識の状態の時に、「定」が自ずと「慧」に転じて「知ならざる知」すなわち「叡智」「般若」が働くようになります。これを「定慧不二」「定慧一体」などといいます。

 

ここで禅の究極の目的である「慧」とは何かをさらに明らかにするために、私たちの知るという意識(知)を分析することが重要になってきます。西田幾多郎は私たちの知るという意識すなわち認識を次のように三種に分類しています。

 

直観:

主客が未だ分かれない、知るものと知られるものとが一つである、現実そのままの、不断進行の意識である。

 

思惟=反省(経験を反省して比較し判断する):

直観の進行の外に立って、翻って不断進行の意識を見た意識である。ベルグソンの純粋持続を同時存在の形に直して見ることである、時間を空間の形に直して見ることである。 

 

自覚:直観を知る意識、「般若」

自己が自己の作用を対象として、これを反省すると共に、このように反省すると言うことが直に自己発展の作用である、かくして無限に進むのである。

 

「慧」は「自覚」に相当し、「定」すなはち「直観」を<反省>することによって成立しますが、この<反省>は思惟による「反省」とは全くその次位を異にしています。思惟は「動的具体的全体」である三昧を反省して、「静的抽象的部分」とした上で、これを「対象」として知るということになりますが、「慧」は直観の「動的具体的全体」そのものを対象として知る思惟よりも上位の知です。西田幾多郎は思惟の作用に対して慧・自覚の作用を「作用の作用」と表現しています。私たちは思惟の作用によって「静的抽象的部分」である所謂世界を知り、慧・自覚の「作用の作用」によって「動的具体的全体」すなわち「現実」そのものを知るということになります。

 

私たちの知は、静的対象であれ、動的対象であれ、対象を得てはじめて成り立ちますが、座禅にはその対象がありません、純粋な作用、つまり「仏性」という宇宙(ブラフマン)のハタラキに由来する純粋なハタラキ(アートマン)があるだけです。私たちが座禅に埋没するとき「仏」になっているのです、「座禅は一時の仏」なのです。(つづく)

新元号発表

桜が満開の今日、新元号が「令和」に決まりました。「非連続の連続」、日本らしい慣習です。時は過去から未来へ直線のように途切れなく続くと思われていますが、そうではありません、非連続にして連続なのです。全くの連続であれば、時を意識することは出来ません。全くの非連続であれば時ではありません。連続の時に刻みを入れて秒、分、時、日、年とすることで時が意識されるようになります。「非連続の連続」、絶対に矛盾するものが自己同一である「絶対矛盾的自己同一」が時なのです。日本の元号は真実在としての時を象徴しています。(つづく)