悟りの証明

残日録

悟りの証明(65)

日曜日の誰もいない小学校で、一人で桜の花に見とれていると、「花に囲まれてお幸せですね!」という声が聞こえてきた。振り返ると、手押し車で通りがかった老婆が微笑んでいた。暫くの間、花と老婆と私は「相即相入」して「事事無礙の世界」に溶け込んだ。〔つづく)

 

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悟りの証明(64)

次の『伝法偈』は禅意を尽くした偈(詩句)と言われています。従って、この偈を正しく理解できれば、既に「覚者」と言うことになります。

 

心随万境転 心は万境に随うて転ず。

転処実能幽 転処実に能く幽なり。

随流認得性 流れに随うて性を認得すれば、

無喜亦無憂 喜びなくまた憂いもなし。

 

私たちの意識作用は周りのあらゆる物事に随って、その物事に転じる(その物事を映す)。

(その意識作用の)転じる様は実にありがたく奥深い。

(しかし)意識作用のハタラキそのものになって意識の本性(仏性)を体得すれば、

喜びも憂いもない(意識作用の世界は絶体無である)。

 

意識のハタラキ=意識作用=意識の本性=仏性は、そのハタラキの対象として「意識の対象界」「色の世界」を創造しますが、意識作用そのものは意識の対象にすることは出来ないので、所謂知識としては知ることができません。意識作用を知るにはそのハタラキに沿って、ハタラキをハタラカして、ハタラキ自身がハタラキを知る(自知)、すなわち直覚・直観する以外にありません、これが所謂「悟り」です。

 

意識作用は意識の対象界(私たちの所謂世界)には存在しないので、「絶体無」ということが出来ますが、意識作用あるが故に我々の世界すなわち「色の世界」があるので、「絶体無」というよりも「絶体有」と言った方が至当です。禅ではこれを「有仏性・無仏性」と言います。

 

因みに『般若心経』では、私たちの普通の世界である「色の世界」を全否定して、「遠離一切顚倒夢想」つまり顚倒してしまった「色の世界」から離脱して本来の「空の世界」、更に「色即空の世界」すなわち「実有の世界」に戻ることを説いています。

 

真の現実の世界、事実の世界、すなわち「色即空」の世界は「いま・ここ」という「絶体の現在」にしかありません、つまり「体験の最中」(動的具体的全体の世界)にしかありません。従って、真の現実や事実(現実の個々の出来事)は「等身大」ということになります。

 

情報の洪水の中で溺れそうな私たちの最大の問題は、その巨大なバーチャルな虚構(静的抽象的部分の世界)と等身大の現実(動的具体的全体の世界)とのギャップを如何に埋めることができるかということです。昨今、フェイク・ニュースが問題になっていますが、今も昔もニュースはファイクか現実の「静的抽象的部分」に過ぎないのです、つまりニュースとはすべて「噂」なのです。

 

私たちは悟りを得ることでその世界観が全く違ってきます。覚者は「非僧非俗」すなわち僧侶でもなければ俗人でもありません、空の世界に生きる者でもなければ色の世界に生きる者でもありません、色即空の世界に生きる者です。覚者は色の世界に止まらず、空の世界にも止まらず、「無所住」であり「没蹤跡」なのです。何れかに止まればハタラキ(動き)は失せてしまい、ハタラキである私たちの命は滅してしまいます。(つづき)

 

悟りの証明(63)

西部邁氏が逝ってしまいました! 自殺ということのようです。

 

西部氏の自殺の原因は、「みずからの慣習法(広義の)をなくしてしまった戦後の日本に対する絶望」という見方もあるようですが、氏の自殺という「事実」は氏本人すらもわからなかったのではないでしょうか。

 

「私は私ではない、故に私である」、私と私でない私、私と非私とが自己同一であるところに真の私がある。私と非私は絶体に対立し矛盾するが、その矛盾が統一されて一つになる(自己同一)所に真の私がある。矛盾すなわち「非」が、そのままで「同一」すなわち「即」ということになり、「即非の論理」となります。

 

多分、西部氏は「自分が自分である」ということは知っていても、「自分が自分でない」ということは知らなかったものと思われます。従って、「自分が自分である」と言うことと「自分が自分でない」ということとが自己同一であるなどということは到底考えられなかったものと思われます。

 

私たちは「生まれる」のか「生まされる」のか。私たちは「死ぬ」のか「死なされる」のか。正解はこれらの両者が統一されて一つになるところにあります。現実や事実は常に「即非」のところにあります。

 

因みにリベラルは「生まれる」「死ぬ」と考え、保守は「生まされる」「死なされる」と考える傾向があります。リベラルは未来に偏重し、保守は過去に偏重しがちです、西部氏は後者だったと思います。

 

西洋の論理では「二者択一」ですが、仏教の論理では「二者二択」です。「どっちか」か「どっちも」か、それが問題なのです。(つづく) #悟り

悟りの証明(62)

「三昧」には私たちの意識の秘密が隠されていますが、三昧の意識(一次的意識)と私たちの普通の意識(二次的意識)とを判然としておく必要があります。意識とは、何物かを「知る意識」で「認識」と同義と考えられます。認識を大別すると次のようになります。

 

1、直覚

  私たちに先天的に具わっている感性の形式である時間・空間によって感官を通じて

  られた材料を知覚として纏め上げる

2、思惟

  悟性作用の範疇(先天的基本概念・類概念)という先天的形式(先験的形式)によ

  て感性の形式である時間と空間によって得られた材料を思惟して纏め上げる。思

  惟は一種の構成作用で概念間の関係を定め統一する。

3、知的直観

  三昧に於ける知情意の「作用を対象」とした作用、すなわち<作用の作用>で、全

  我の作用、全機のハタラキ(全機現)。

 

思惟と知的直観との根本的な相違は、思惟が反省によってその直前の過去となった意識作用の内容を対象として纏め上げて静的に統一する(統覚)のに対して、知的直観は直観の作用がその直観の作用自身を対象として纏め上げる「動的統一」という点にあります。従って前者は「静的抽象的部分」の認識であり、後者は「動的具体的全体」の認識ということになります。

 

この知的直観を直観することこそが所謂「悟り」ですが、禅宗ではこの知的直観を体験として直接的(「直指」)に伝えることを宗としています。「行即知」すなわち行うことが取りも直さず認識することであるということを直指するには、「行いを促す」以外にありません。

 

弟子「こちらに参りまして長くなりますが、今日まで何らの教えを頂いておりません

   が。」

師匠「お前がここに来てからと言うもの、寸時を惜しんで教えているではないか。」

弟子「その教えとは何ですか。」

師匠「お前がお茶を持って来てくれる時、わしはそれを受け取るではないか。お前がお

   儀をすれば、わしもお辞儀をするではないか。こんなあんばいに、朝から晩ま

   でのべつに教えているではないか。」

 

師匠「食事はしたか?」

弟子「はい、終わりました。」

師匠「ならば、食器を洗うがよい。」

 

「行即知」である「知的直観」は決して知識としては教えることが出来ないので、禅の師匠は、弟子をして知的直観を実行させしめる、弟子をして知的直観をハタラカしめることによって「体得」させることに専念します。この体験による「体得」こそが「見性」すなわち「悟り」です。「見性」の性とは「本性」すなわち「仏性」のことで、「自然のハタラキ」のことです。しかし、「自然のハタラキ」とは言っても、思惟の対象としての「自然のハタラキ」ではないということ、考えられた「自然のハタラキ」ではないこと、すなわち「自然のハタラキは自然のハタラキではない、それが自然のハタラキである」という「即非の論理」を忘れてはなりません。「自然のハタラキ」(宇宙のハタラキ)である「ブラフマン」は私たち人間のハタラキ、すなわち「アートマン」として分有され、そのハタラキは統一と分化(発展)を繰り返しながら動いていきます。分化は意識の発展途上であり、統一は私たちの思惟や意志における統一、すなわち統覚を意味し、知の成立や意志の決行ということになります。

 

「喫茶去」(お茶でも飲んで行きなさい)

 

中国唐時代の禅僧趙州は、その晩年には、誰に何を問われても「喫茶去」という一言で済ましたと言われています。まさにここには究極の「直指」が歴然としています。(つづく) #悟り

 

悟りの証明(61)

私たちは誰でも、私たちの外側に世界が広がっていて、私たちが死んでもその世界はそのまま残っていると思い込んでいるようですが、果たしてそうでしょうか。一般に、世界と言えば次の三つが考えられます。

 

1、感じられた世界(感官の対象界) 

  我々が見るもの聞くもの、すなわち感官の対象となる世界(自然科学的世界)

2、考えられた世界(思惟の対象界)

  思惟の対象となるもの、すなわち理性的な世界(プラトンイデア界等)

3、直接体験された世界(行為の対象界)

  我々の自己に直接である体験の世界、すなわち知情意の対象となる世界(三

  昧の世界)

  

私たちの真の自己は「ハタラク自己」であり、真の世界とは上記3の行為的自己の対象界です。行為的自己に抵抗するものが真に「客観的」と考えられ、真に我々を超えたものと考えられます。道元禅師の『正法眼蔵』・「現成公案」の一節にはそのことが明確に著されています。

 

(第一段)

諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。

 

(第二段)

萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。

 

(第三段)

佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。

 

(第四段)

しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

 

第一段は「色の世界」です、「意識の対象界」すなわち私たちによって意識された物事の世界です。上述の1と2に相当します。

 

第二段は「空の世界」です、「意識の作用界」すなわち私たちの意識のハタラキの世界です。眼は一切を見ますが眼自身を見ることは出来ないように、「眼の作用」の世界は「絶体無」「空」の世界です。

 

第三段は「色即空」の世界です、主客未分の行為の世界です。行為の世界に於いては主観と客観が一つになっています、「主観即客観・客観即主観」です。上述の3に相当します。

第四段は「行為の世界」で、この一節のまとめになっています。「しかもかくのごとくなりといへども」という接続語が非常に重要で、「第三段までは<教>としては論理的に「このようであると言えるが」、<行>の立場では(『正法眼蔵』は「行の書」)、「花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」というように真の世界は三昧に於いて知情意の「全機現」によって現成する。(つづく) #悟り

 

悟りの証明(60)

「善人なほもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」(『悪人正機説』)

「橋は流れて水は流れず」

「東山水上行」

 

仏教のこのような主張には、私たちの「三昧の反省」「現在意識の反省」を前提とした論理そのものを否定し、仏教の論理である『即非の論理』に導こうとする意図があります。善人は善人ではない、だから善人なのだ。悪人は悪人ではない、だから悪人なのだ。橋は橋ではない、水は水ではない、だから橋であり水なのだ。善人即非善人、悪人即非悪人、橋即非橋、水即非水、等の「即非」とは、「即」が自己同一という意味であり、「非」が矛盾ということから「矛盾の自己同一」を意味しています。西田幾多郎はこれを「絶体矛盾的自己同一」と表現しています。

 

即非の論理』を理解するには、人間意識の原点であり根本である「三昧」という「意識の現場」に立ち戻らなければなりません。「三昧」に於いては未だ私たちの「普段の意識」である「二次的意識」「分別意識」は働いていません。「分別意識」は三昧の「動的具体的全体」である「現実」そのものを反省して「静的抽象的部分」とすることで意識の対象を得て成立する意識です。三昧に於いて働いている意識は「無分別の意識」「無意識の意識」で、この無分別の意識が分別をするところに「正受」が実現します。この「無分別の分別」のことを「般若」といいます。「正受」とは「動的具体的全体」である現実をそのまま正しく受ける(認識する)という意味です。例えば、私たちがサッカーを観戦している時や音楽に没入して我を忘れている時、我の意識は完全に無くなり三昧の境に入り、ふと我に返るまで無我になります。無我になりますが意識がないのかと言えば却って集中したクリアーな「覚醒した意識」がある筈です。この意識が、「無意識の意識」であり、この意識の状態が「三昧」であり、「動的具体的全体」すなわち現実・事実そのものを映す「正受」なのです。

 

「三昧」における自然のハタラキである認識作用(仏性)すなわち「般若」(知的直観)を体験(見性)することなく、言語・概念による論理的思惟に執着する私たちは、『般若心経』が指摘するように「一切顚倒夢想」の世界で生きているようなものです。私たちが知るべきは、物事それ自体であって、物事の解釈や説明ではないはずです。

 

一僧「如何なるか是れ道。」

投子「道。」

一僧「如何なるか仏。」

投子「仏。」

 

一僧「如何なるか是れ曹源の一滴水。」

浄慧「是れ曹源の一滴水。」

 

「覚者」は決してクダクダと説明や解釈をすることはありません。ただ「三昧」を直接に指し示すだけです。これが「直指人心」です。(つづく)

悟りの証明(59)

鳴らぬ前の鐘の音を聞け」

「隻手の音声を聞け」

「父母未生以前の面目は如何」

 

これからしばらく禅の「公案」について考えてみたいと思います。「公案」は悟りを得た者(覚者)であれば簡単に解けますが、そうでない場合は全く意味不明で、分別(思量=考えること)出来ません。「公案」は多様ですが、その目的は、何れも「無意識の意識」「無分別の分別」「無知の知」「無作の作」「無為の為」等が現成する「意識の現場」である「三昧」「一次的意識」の存在を知らしめ、その意義の理解を促し、広く世に知らしめることにあります。

 

一僧 「兀兀地 思量什麼。」(不動の姿勢で何を考えているか)

薬山 「思量箇不思量底。」 (この思量を絶したものを思量しているのだ)

一僧 「不思量底、如何思量」 (考えられないものをどうして考えるというのか)

薬山 「非思量」(所謂思量ではない)

 

「思量箇不思量底。」とは「無意識の意識」「無分別の分別」「無知の知」を意味しています、つまり、考えられないものを考える、無意識を意識する、無分別を分別する、無知を知ると言うことを意味しています。考えられないものを考えるには「体験」するしかありません。一般的な意味での「体験」は「体験を反省したもの」「体験を思惟したもの」で、体験そのものではありません。厳密な意味での「体験」は、これまで述べてきたように「三昧」であり、「一次的意識」であり、「現在意識」です。

 

道元禅師はこの「三昧」を私たちの「赤裸々な心」「ありのままの心」「ありのままの意識」として「赤心」と言い、私たちの心(意識)の動きは、「赤心片々」であると言っています。「赤心片々」とは赤心(三昧)は片々として動く、「非連続の連続」(西田幾多郎の表現)であるという意味です。私たちの意識は、「三昧(一次的意識)」→「普通の意識(二次的意識)」→「三昧(一次的意識)」というように交互に動いていきます。しかし私たちは「三昧」「赤心」「一次的意識」の存在に全く気が付いていないのです、「日に用いて知らず」なのです。道元禅師は、「三昧」が片々としていることを「前後際断」とも言っています。

 

「しるべし、 薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへど も、前後際断せり。」(『現状公案』)

 

「前後際断」とは「三昧」の有り様を表したもので、一つの三昧には当然その前後(始まりと終わり)がありますが、その三昧の前後には二次的意識があり、その三昧は個立・孤立しているという意味にります。三昧には一瞬の三昧から、座禅のような数十分の三昧があります。道元禅師は座禅を「王三昧」といって「只管打座」(ひたすら座禅に邁進する)に努めることを最上の仏道修行としました。

 

「三昧を知る」ことが悟りなので、仏道修行は「三昧を知る」ことに尽きます。私たちが何かに無我夢中になるとき、そこに三昧があります。「無我」であったり、「忘我」であったり、「没我」であったり、要するに我が無いときに三昧が現成します。「三昧」に於いては、我はないにもかかわらず意識・認識があります。一体、この意識・認識は誰のものなのかということになりますが、それこそが「仏」ということになります。しかしここで重要なことは、仏という存在が意識したり認識すると考えてはならないということです。意識したり認識するその「ハタラキ」を仏と名付けているのです。仏がハタラクのではなく、ハタラクことが仏なのです。

 

一般的な意味に於いて、認識する、思量する、思惟する、知る、判断するということは「反省」と言うことを意味します。私たちが考える時、何かを考えます、つまり考えるという「作用」に対して、考えられる「対象」が必要です。この対象は何処からか来るかといえば、「三昧の反省」からということになります。つまり、三昧を反省することによって対象を得て考えているのです。

 

西田幾多郎は私たちの「知る」「判断する」と言うこと、すなわち私たちの知を次のように三つに分類しています。

 

1、直観=直覚

主客が未だ分かれない、知るものと知られるものとが一つである、現実そのままの、不断進行の意識である。

2、反省=思惟

体験を反省して比較し判断する。ベルグソンの純粋持続を同時存在の形に直して見ることである、時間を空間の形に直して見ることである。 

3、自覚=知的直観

自己が自己の作用を対象として、これを反省すると共に、このように反省すると言うことが直に自己発展の作用である、かくして無限に進むのである。所謂フィヒテの「事行」。

 

悟りは三昧に於いて自ずとハタライテいる3の「知的直観」によって「動的具体的全体」としての現実・事実を知る能力である「般若」の存在を「体験的に知る」ということになります。「般若」が「動的具体的全体」すなわち現実そのものを知る能力に対して、2の反省=思惟は「動的具体的全体」である三昧・現実を静的に、抽象的に、部分的に知る能力と言うことが出来ます。

 

「道得也三十棒道不得也三十棒」(言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒)

 

「言っても言えなくても警策で何度も打つ」ということで、「一体どうすればいいの」ということになりますが、言うということは三昧を反省(思惟)しているので、そこには既に現実・事実はありませんし、言えないということはそこには何の認識もないということになり、何れもダメだということになります。現実・事実というものは「当事者」にしかわからないものですが、実のところ、当事者ですらわからないというのが一般です。(つづく)