悟りの証明

残日録

悟りの証明(73)

悟りを得るためには、私たちは日常の行動において、私たちの微細な意識の動きを冷静に観察する必要があります。

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私たちの意識は「三昧1/思惟1/三昧2/思惟2/三昧3/思惟3」というように三昧と思惟が交互に動いて行きます。三昧は思惟によって際断(切断)されながら次の三昧へと続いていきます。これを道元禅師は「前後際断」と表現しています、『正法眼蔵』「現成公案


で次のように述べています。

 

「たきぎははひとなる、さらにかへりてたきぎとなるべきにあらず。しかあるを、灰はのち薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、後あり先あり。」

(薪は灰となる、さらに返って薪となることはない。これを、灰は後薪は先と見てはいけない。知るべきである、薪は薪の「真相(ありのまま)」「三昧」に於いて、先があり後がある。三昧そのものには前後があるといっても、その三昧の前後は(思惟によって)際断されている。灰は灰のありのままにおいて、後があり先がある。)

 

また、道元は前後際断の様子を「赤心片々」と表現しています。

 

「赤心片々といふは、片片なるはみな赤心なり、一片両片にあらず、片片なるなり。荷葉団団団似鏡、菱角尖尖尖似錐、かがみににたりといふとも片片なり、錐ににたりといふとも片片なり」

(赤心片々というのは、片々はみなそれぞれが赤心「赤裸々な心」である、一片二片と数えられるものではない、一片一片がそれぞれ個物(全一の存在)である。蓮の葉はどれも円く、円いことは鏡のようである、菱の葉は錐のように尖っている、鏡に似ているといっても片々それぞれが全一の存在である、錐に似ているといても片々それぞれが全一の存在である。)

 

三昧の世界は時空が一体となった「時空一如」の全一の世界ですが、思惟はこの「時空一如」の世界を「空間」の世界に「空間化」するのです。私たちが思惟するときには、時を止めて時の平面に、誕生以来の全経験(空間化された全三昧の記憶)を同時存在の形に直して並べて見るのです。これが私たちの「所謂世界」というものです。三昧自体には前後がありますが、他の三昧と比較して、いずれが前でいずれが後かを判断するには、三昧を空間化し、同時存在の形にして比較しない限り、前後関係を定めることは出来ません。

 

NB

思惟=反省(経験を反省して比較し判断する):

直観の進行の外に立って、翻って不断進行の意識を見た意識である。ベルグソンの純粋持続を同時存在の形に直して見ることである、時間を空間の形に直して見ることである。 

 

因みに、西田幾多郎はこの「前後裁断」を「非連続の連続」と表現して、「西田哲学」の根幹を成している最も重要な概念です。

 

(つづく)