悟りの証明

残日録

悟りの証明(72)

先に述べたように、「座禅」は「一時の仏」になることです、「一時の仏」とは「一時の仏性」になることです。仏性とは宇宙のハタラキ・動き・力・エネルギー(ブラフマン)が私たち人間に降臨し「アートマン」となって私たちの「意識のハタラキ」(意識作用)になるということです。ここで注意なければならないことは、この「ハタラキ」は思惟によって考えられた働きではなく、座禅によって「ハタラキそのものになる」ということです、「ハタラキそのものになる」とは「ハタラキに埋没する」ということです、「ハタラキに埋没する」とは「ハタラキも無く」なって「定」すなわち「絶対無」になるということです。

 

しかし、鈴木大拙によれば、「座禅」は「定」であって、「慧」を得る手段であるといっています。そこで私たちは「禅堂場」から出て、日常生活に戻るということになります。実際、悟りは日常生活の些事を契機に「ハッと気が付く」ものです。

 

次のエピソードは、「悟りの証明(25)」で既に述べていますが、明治時代の落語家三遊亭円朝が悟りを得た「瞬間(の三昧)」の様子を如実に物語っています。

 

「ある日、大和尚(西山禾山)が急に禅室に召されますので、とりあえず参りますと、大和尚が威たけだけしく「円朝」と呼ばれますので、「ハイ」と答えますと、「わかったか」とおおせられますゆえ、「わかりませぬ」と申し上げますと、大和尚は例の目をむき出しにして「汝、返事をしながら、わからぬか」と一喝され、また円朝と呼ばれるので、「ハイ」と答えますままに、豁然、省悟致しました。そこで私は始めて円朝が「ハイハイ」ではなく、「ハイハイ」が円朝である、と合点しました。」

 

円朝が『ハイハイ』ではなく、『ハイハイ』が円朝である」とは絶妙の表現ですが、「円朝がハイハイ」ということは既に「ハイハイ」を思惟で反省し論理的に構成して表現しているのです。一方「ハイハイが円朝である」ということは「ハイハイというハタラキそのものが円朝」であるということを「自覚」したのです。大和尚の「円朝」という問いに、間髪を入れず、全く思惟を挟まず、直に「一瞬の三昧」である「ハイハイというハタラキそのもの」を、思惟ではなく「自覚」したのです。「自覚」すなはち「作用の作用」が作用を対象として認識したのです。自覚においてはハタラクことが知ることになります、すなわち「行即知」となります。

 

以上がわかれば、既に「悟りを得た人」すなはち「覚者」になります。上記のように悟りの体験とは実に簡単明瞭です。円朝の場合は師匠の導きがあって、悟りを得ることが出来ましたが、師なくして悟ることも可能です(無師独語)。師なく座禅なくして悟ることも可能です。上記を徹底的に考え、理解して、悟りの契機を待てばいいのです、悟りは向こうの方からやって来ます。悟りとは「三昧」「純粋経験」「真の現実」を自覚することです。この自覚は「行即知」、すなわち行うことが知ることなので、円朝の「ハイハイ」のように具体的経験を経てはじめて「体得」されます。

 

世の中には自分は悟りを得たと自認している人がいますが、本当に悟りを得たかどうか誰が、どのように判断するのでしょうか。師に師事して師に証明してもらえばいいではないかうということが考えられますが、果たして、その師は本当に覚者なのかが問題になります。オウム真理教 麻原彰晃に騙された頭脳明晰な若者たちがいたという事実を考えれば、「悟りの証明」はそう簡単なことではないということがわかります。

 

それでは一体、どうしたら「悟りの証明」が得られるのでしょうか。答えは唯一、「公案を解く」ことです。悟りを得たら必ず「公案」が解けるようになります、そして、難しい仏教用語ではなく、今の言葉で説明出来るようになります。(つづく)