悟りの証明

残日録

悟りの証明(71)

仏教、特に禅には「座禅」がつきものですが、何のために座禅をするのでしょうか、座禅の目的は一体何でしょうか。

 

隻手の音声を聞け

鳴らぬ前の鐘の音を聞け

これは何だ、言っても言わなくても三十棒(をくらわす)

この拄杖がわかるか、それがわかったとき禅の修行は終わる

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや親鸞の至言)

 

これらの公案や至言はいずれも「無分別の所」「分別以前の所」「分別が依って立つ所」すなわち「三昧」「一次的意識」「純粋経験」を示唆し、この無分別を認識すること、すなわち、「無分別の認識」「無分別の分別」「無意識の意識」に導こうとしているのです。

 

私たちは私たちの「認識の原点」「認識の根拠」であり、認識が依拠する「三昧」を知ることなく、三昧を反省し、判断し、思惟し(思惟は判断の連続)、私たちの所謂世界を構築しているのです。私たちが認識している所謂世界は認識の「対象界」であり、肝心な認識の「作用界」は除外されているのです、換言すれば、主観抜きの客観だけの世界なのです。因みに、三島由紀夫はこれを「主体なき理性」と称してリベラル(特に共産主義者)を批判しています(もっとっも、三島にこのような理解があったかどうかは知りませんが)。三昧においては主観と客観が一つになっており、作用即対象、主観即客観、主客未分、「空即色」ということになります。

 

私たちは「座禅」に没入することで、三昧すなわち無分別の世界に入ります。しかし、これは座禅の初心者にとって容易なことではありません。「分別意識」「二次的意識」「一般的意識」「日常的意識」すなわち雑念(知覚、思惟、想像、連想による)が次々と湧いてきて、これを払拭することは容易ではありませんが、(出来れば日頃から)無心・無我になるのだという「意志」を堅持し、湧き上げって来る雑念には付き合わないで無視することで、意志が自ずと導いてくれて、いつしか、「無心」「無我」になって行きます。当初、この無心の状態は短時間(数秒~数分)ですが、修行を積むことでその時間は長くなって行きます。因みに、座禅道場での座禅の時間は、一本の線香が燃え尽きる時間(一柱)、約40分となっています。

 

意識を客観視すれば、意識は常に動いていますが、意識の動きそのものに成りきり、動きしかなくなれば、動きというものはなくなります。座禅は、動いて止まない雑念に付き合わないことで、次第に意識自体に成りきって行き、ついには静かな安楽境に達します。この様子は次の「雪山偈」にうまく表現されています。

 

諸行無常 (諸々の物事は常に変わり行く)

是生滅法 (生じたものは滅するものである)

生滅滅己 (生したり滅したりすることにかかわらなければ)

寂滅為楽 (静かな安楽に至る)

 

仏道修行は布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という「六波羅蜜」に尽きますが、特に重要な修行は「禅定」と「智慧」です。「禅定」とは禅と定が一緒になったもので、「禅」は禅那の略で、禅那は梵語「dhyana」の音写、「定」は「dhyana」の漢訳ということで、要するに、「dhyana」=禅那=禅=定ということになります。「三昧」は梵語「samadhi」の音写で、その意味は「定」ということなので、結局、「dhyana」=禅那=禅=定=三昧ということになります。従って、座禅の目的は三昧に入り「定」を得る(三昧に入ることが定)ということになります。

 

「定」とは「無意識」「無分別」「無心」という意識(心)の状態で、知覚・思惟・想像・連想などの所謂私たちの「普通の意識」「反省的意識」「二次的意識」(意識=認識=知、意識とは何ものかを知る意識)を除去した意識ですが、その「定」という意識の状態の時に、「定」が自ずと「慧」に転じて「知ならざる知」すなわち「叡智」「般若」が働くようになります。これを「定慧不二」「定慧一体」などといいます。

 

ここで禅の究極の目的である「慧」とは何かをさらに明らかにするために、私たちの知るという意識(知)を分析することが重要になってきます。西田幾多郎は私たちの知るという意識すなわち認識を次のように三種に分類しています。

 

直観:

主客が未だ分かれない、知るものと知られるものとが一つである、現実そのままの、不断進行の意識である。

 

思惟=反省(経験を反省して比較し判断する):

直観の進行の外に立って、翻って不断進行の意識を見た意識である。ベルグソンの純粋持続を同時存在の形に直して見ることである、時間を空間の形に直して見ることである。 

 

自覚:直観を知る意識、「般若」

自己が自己の作用を対象として、これを反省すると共に、このように反省すると言うことが直に自己発展の作用である、かくして無限に進むのである。

 

「慧」は「自覚」に相当し、「定」すなはち「直観」を<反省>することによって成立しますが、この<反省>は思惟による「反省」とは全くその次位を異にしています。思惟は「動的具体的全体」である三昧を反省して、「静的抽象的部分」とした上で、これを「対象」として知るということになりますが、「慧」は直観の「動的具体的全体」そのものを対象として知る思惟よりも上位の知です。西田幾多郎は思惟の作用に対して慧・自覚の作用を「作用の作用」と表現しています。私たちは思惟の作用によって「静的抽象的部分」である所謂世界を知り、慧・自覚の「作用の作用」によって「動的具体的全体」すなわち「現実」そのものを知るということになります。

 

私たちの知は、静的対象であれ、動的対象であれ、対象を得てはじめて成り立ちますが、座禅にはその対象がありません、純粋な作用、つまり「仏性」という宇宙(ブラフマン)のハタラキに由来する純粋なハタラキ(アートマン)があるだけです。私たちが座禅に埋没するとき「仏」になっているのです、「座禅は一時の仏」なのです。(つづく)