悟りの証明

残日録

悟りの証明(64)

次の『伝法偈』は禅意を尽くした偈(詩句)と言われています。従って、この偈を正しく理解できれば、既に「覚者」と言うことになります。

 

心随万境転 心は万境に随うて転ず。

転処実能幽 転処実に能く幽なり。

随流認得性 流れに随うて性を認得すれば、

無喜亦無憂 喜びなくまた憂いもなし。

 

私たちの意識作用は周りのあらゆる物事に随って、その物事に転じる(その物事を映す)。

(その意識作用の)転じる様は実にありがたく奥深い。

(しかし)意識作用のハタラキそのものになって意識の本性(仏性)を体得すれば、

喜びも憂いもない(意識作用の世界は絶体無である)。

 

意識のハタラキ=意識作用=意識の本性=仏性は、そのハタラキの対象として「意識の対象界」「色の世界」を創造しますが、意識作用そのものは意識の対象にすることは出来ないので、所謂知識としては知ることができません。意識作用を知るにはそのハタラキに沿って、ハタラキをハタラカして、ハタラキ自身がハタラキを知る(自知)、すなわち直覚・直観する以外にありません、これが所謂「悟り」です。

 

意識作用は意識の対象界(私たちの所謂世界)には存在しないので、「絶体無」ということが出来ますが、意識作用あるが故に我々の世界すなわち「色の世界」があるので、「絶体無」というよりも「絶体有」と言った方が至当です。禅ではこれを「有仏性・無仏性」と言います。

 

因みに『般若心経』では、私たちの普通の世界である「色の世界」を全否定して、「遠離一切顚倒夢想」つまり顚倒してしまった「色の世界」から離脱して本来の「空の世界」、更に「色即空の世界」すなわち「実有の世界」に戻ることを説いています。

 

真の現実の世界、事実の世界、すなわち「色即空」の世界は「いま・ここ」という「絶体の現在」にしかありません、つまり「体験の最中」(動的具体的全体の世界)にしかありません。従って、真の現実や事実(現実の個々の出来事)は「等身大」ということになります。

 

情報の洪水の中で溺れそうな私たちの最大の問題は、その巨大なバーチャルな虚構(静的抽象的部分の世界)と等身大の現実(動的具体的全体の世界)とのギャップを如何に埋めることができるかということです。昨今、フェイク・ニュースが問題になっていますが、今も昔もニュースはファイクか現実の「静的抽象的部分」に過ぎないのです、つまりニュースとはすべて「噂」なのです。

 

私たちは悟りを得ることでその世界観が全く違ってきます。覚者は「非僧非俗」すなわち僧侶でもなければ俗人でもありません、空の世界に生きる者でもなければ色の世界に生きる者でもありません、色即空の世界に生きる者です。覚者は色の世界に止まらず、空の世界にも止まらず、「無所住」であり「没蹤跡」なのです。何れかに止まればハタラキ(動き)は失せてしまい、ハタラキである私たちの命は滅してしまいます。(つづき)