悟りの証明

残日録

悟りの証明(63)

西部邁氏が逝ってしまいました! 自殺ということのようです。

 

西部氏の自殺の原因は、「みずからの慣習法(広義の)をなくしてしまった戦後の日本に対する絶望」という見方もあるようですが、氏の自殺という「事実」は氏本人すらもわからなかったのではないでしょうか。

 

「私は私ではない、故に私である」、私と私でない私、私と非私とが自己同一であるところに真の私がある。私と非私は絶体に対立し矛盾するが、その矛盾が統一されて一つになる(自己同一)所に真の私がある。矛盾すなわち「非」が、そのままで「同一」すなわち「即」ということになり、「即非の論理」となります。

 

多分、西部氏は「自分が自分である」ということは知っていても、「自分が自分でない」ということは知らなかったものと思われます。従って、「自分が自分である」と言うことと「自分が自分でない」ということとが自己同一であるなどということは到底考えられなかったものと思われます。

 

私たちは「生まれる」のか「生まされる」のか。私たちは「死ぬ」のか「死なされる」のか。正解はこれらの両者が統一されて一つになるところにあります。現実や事実は常に「即非」のところにあります。

 

因みにリベラルは「生まれる」「死ぬ」と考え、保守は「生まされる」「死なされる」と考える傾向があります。リベラルは未来に偏重し、保守は過去に偏重しがちです、西部氏は後者だったと思います。

 

西洋の論理では「二者択一」ですが、仏教の論理では「二者二択」です。「どっちか」か「どっちも」か、それが問題なのです。(つづく) #悟り