悟りの証明

残日録

人権主義・偽善の思想(4)

社会契約思想に基づく人権思想は、私たち日本国民に、他人に害を与えない限り、全くの自由と権利を与えて、国民を「人格なき神」に仕立て上げてきました。

 

「この国民が保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。」憲法第十二条

 

これは、一見、誰でも納得のいく条文ですが、実地に於いては「公共の福祉」という文言は全く「死語」になっています。この「公共の福祉」の意味は、単に他人を害してはいけないという意味(一元的内在制約)で、他人に害を与えない限り、何をやっても全く自由ということを意味しています。私たちは、三大義務(教育・勤労・納税)を果たしさえすれば、他人に害を与えない限り、無制限の自由と権利を有しているのです。これがまさに「人権神授説」「天賦人権説」というもので、人間が神になりかわったということを意味しています。しかし、この神は「理論理性」によって考えられた神なので、「実践理性」は無視され、倫理も無視され、「人格」も無視された、「人格なき神」ということになります。私たちが住んでいる社会は「人格なき神」が荒ぶる社会なのです。

 

この「人格なき神」の困ったところは、「悪いことはしない代わりに、善いこともしない」という倫理(道徳)が欠落した点にあります。私たちは、元東京都知事舛添要一氏が「違法性はない」と主張しましたが、失脚に追い込みました。私たちが都知事に求めたものは「ただ悪いことをしない」ということだけではなく、「善いことをしてもらいたい」という倫理的期待があったからです。私たちは都知事に「人格」を求めていたのです。悪の反対語は善ですが、悪を行わないことを善とは言いません、善を行うことが善なのです。自由や権利だけを叫ぶ人権主義者が幅をきかせる現下の状況では、桝添氏を失脚に追い込んだ私たちが、やがて桝添氏と同様の存在になってしまう恐れがあります。

 

「私の勝手でしょう」という子供の自由・権利の主張に対して、「勝手ではない!責任と義務がある!」と諫める大人は少なくなりつつあります。なぜなら、人権主義者の「子どもの権利」という声が聞こえてくるからです。私たちは紛れもなく「人権ファシズム」の時代に生きているのです。

 

「人権ファシスト」は例外なく「主知主義者」「リベラル」で、理論理性を駆使して一般的で普遍的な「あるもの=存在(ザイン)」を追求し、「真偽」を明らかにしようとしますが、私たち普通の人間は、情意を重んじて「あるべきもの=当為(ゾルレン)」を追求し、「善悪」の判断に拘り、倫理を重んじます。主知主義者の誤謬は「真偽」と「善悪」を混同することにあります。このブログで吉本隆明大江健三郎を批判してきましたが、彼らは第一級の知識人であるにもかかわらず、真なるものが善であると思い込んでいて、真なるものは必ずしも善ではないということを知らないのです。例えば、原爆やクローン人間は科学的な「真」ですが、「善」である筈がありません。「理論理性」による「真」と「実践理性」による「善」とは全く似て非なるものです。(つづく)