悟りの証明

残日録

人権主義・偽善の思想(3)

理想的民主主義は理想的人格を具えた個人(国民・市民・人民)の集団によって成立します。理想的な社会は理想的な個人がいてはじめて成り立つのです。人権を主張する権利には「人格」という義務が伴います。人権思想に多大な影響を与えたルソーによれば、「一般意志」は常に「公共の利益」を目指す「公的人格の意志」であとしていますが、「公的人格の意志」である一般意志については、ただ啓蒙が必要であると言っているだけです。つまり、ルソーは自由・平等という権利を主張するにとどまり、義務である「人格の陶冶」については何もふれていません。ルソーは何故人格について掘り下げなかったのか。それは単純に、ルソー自身が人格破綻者であり、掘り下げることが出来なかったからです。ルソーの「社会契約説」は全くの「片手落ち(敢えて差別用語を使います)」の説と言わざるを得ません。

 

共産党は「国民あっての国家である」といっていますが、これは全くの間違いです。「国民あっての国家・国家あっての国民」という矛楯の自己同一のところに真の民主主義が成立します。(このような論理を、仏教の「即非の論理」といいます)

 

数年前、片山さつき氏がつぎのようなツイートをして炎上したことがあります。

 

『国民が権利は天から付与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような「天賦人権論」をとるのはやめよう、というのが私達の基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!』

 

因みに、このツイートの後半部分は、ジョン・F・ケネディ大統領就任演説にヒントを得たものと思われます。

 

「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。」

 

この片山氏のツイートに対して、小林節慶大名誉教授が「社会契約説」の一般的解釈の立場から、

 

「個々の国民が個性を持った存在であり、かつ幸福に生きる権利を持っているという考えは普遍的な考え方だ。」

 

と主張して片山氏を批判していますが、このは全くナンセンスな批判でしかありません。小林氏の主張は権利の主張に止まり、「義務」については何等の言及もありません。これが日本の憲法学者のレベルなのです。

 

自然法」→「自然権」→「人権」は社会秩序を危うくする危険な思想です。「人権」は「自然権」に由来し、「自然権」は「自然法」にその根拠を置いています。「自然法」に由来する「自然権」とは、「国家によって与えられた実定法上の権利ではなく,国家成立以前に人が生まれながらにして有するとされる権利」「事物の自然本性から導き出された永遠普遍の権利」あるいは「神に由来する権利(天賦人権説)」ということになっていますが、その実、私たちの「理論理性」による「実定法」に過ぎません。

 

自然法」なるものは「ローマ法」にその起源があります。「ローマ法」はローマ市民の法でしたが、ローマが他国を征服したとき、ローマ人は他国民を律するために「ローマ法」をそのまま適用することを良しとしませんでした。そこで「ローマ法」から他国民にも共通の法を選んで、すべての被征服国家に共通の法体系である「万人法(ユース・ゲンテイウム)」を制定しました。「万人法」は、ローマ人にのみ適用される「市民法(Jus civile)」に対し、ローマ人と非ローマ人および非ローマ人相互間の法として、主に「商取引・契約」における柔軟な法として誕生したのです。その後「万人法」はストア哲学によって理論的に洗練され、すべての法律の根柢となる自然法の模型となったのです。「自然法」の考えでは、神に由来する人間の理論理性は神意を把握することが出来、それによって我々を支配する法則を定めることが出来、これらの法則が永遠不変のものと考えたのです。つまり、ここで神と人間がすり替わってしまったのです。神に代わって人間を理念とする西洋近代がここから始まったのです。人間は自らを神の代理とすることで「完璧な人間」という重荷を背負うことになったのです。「自然法」とは「完璧な人間」を前提(仮定)とした実定法なのです。

 

陶冶なき人格が「人権」を主張するとき、そこにはただ、社会の混乱があるのみです。(つづく)