悟りの証明

仏教の一隻眼

人権主義・偽善の思想(1)

2017.5.17 の産経ニュースによると、鳩山由紀夫元首相は、「日本列島は日本人だけのものではない」「日本列島はすべての人間のもの」等と言って、「地球社会」「お花畑」の夢を見続けているようです。一般には、この夢は突飛なものとして一笑に付しますが、人権主義者にとっては決して夢ではなく、論理的必然の帰結と考え、信じています。確かに「人権」というものを論理的に<中途半端>に考えてゆけば、「国民国家」は崩壊し、国境はなくなり、国家間の「戦争」はなくなり、みんな仲良し地球市民の「お花畑」が実現することになります、「人民主権」に徹すれば「国家主権」は消失してしまうからです。しかし<現実的に深く考えれば>、人間に民族意識、人種意識、宗教意識等があり、それらに基づく「文化」がある以上、国境はなくなることはなく、紛争もなくなることはありません。なぜなら、「文化」は国家や国民のアイデンティティーだからです。「文明」(経済・科学・技術等)は物質的なものなので普遍化・グローバル化しますが、「文化」は「精神的」「歴史的」「社会的」なものなので民族や国土に制約されるのです。多民族国家である米国は「地球社会」に近い国家ですが、トランプの出現によって逆行し始めています。EUも又「地球社会」に一歩踏み出している存在ですが、英国の離脱で後退してしまいました。

 

万が一、仮に、「地球社会」が実現したとしてもその社会は「お花畑」「地上の楽園」などではなく、「奴隷社会」「ロボット社会」となることは歴史が証明しています。共産主義思想は「資本主義経済が人間(プロレタリアート)を疎外する」という経済に基礎を置いた一種の「文明論」であり、人間の精神面=「精神文化」は除外されています。このことを洞察していた三島由紀夫共産主義から日本文化を防衛しようとして『文化防衛論』を著したのです。ソ連コルホーズ(集団農場)、ソフォーズ(国営農場)において過酷な労働を強いられた市民(人民)はまさに家畜以外の何ものでもありませんでした。中国においても、その薫り高い歴史・伝統・文化は「文化大革命」によって破壊され、アイデンティティーのない無機質な物質国家となり、人民(市民)もアイデンティティーをなくして「物欲」だけのロボットになりつつあります。中国人民は精神文化的存在から物質文明的存在へと「物質化」しているのです。共産主義は「唯物論」=「ただものろん」に依拠しているので、当然の成り行きなのです。人権思想(社会契約論)は歴史・伝統・文化を否定あるいは無視して「自然状態」から出立しますが、その誤りはまさにその「自然状態」を仮定することにあります。ルソーは「自然状態」を理想的な「お花畑」として、その「お花畑」を支える「原理」を明らかにしようとしました。ルソーの戦略は、まず先に、「理念」「理想」の世界すなわち「お花畑」を描き、その「お花畑」を支える原理を明らかにしたの後に、それを現実に適用しようとしたのですが、このようなアプローチは誤りであると指摘したのが同時代を生きたカントです。カントの『純粋理性批判』につぎのような一文があります。

 

「理性概念は、その名前からしてすでに前もって、それが経験内に制限されたくないということを示している。なぜなら、理性概念の関与する認識は、どのような経験的認識も単にそれの一部に過ぎないような認識(おそらくは可能な経験の全体、あるいは可能な経験の経験的総合)であり、もちろんいかなる実際の経験もそこでは到底完全には到達しないが、やはりそれに所属しているような認識であるからである。」

 

「理性概念」とは「理念」のことで、ここでは「お花畑」を意味します。理念は現実(経験・実践)に制限されない「自由」ということを示しています。何故なら理念・理想を求める「理論理性」の使用は経験的認識はもとより、いかなる現実的認識をもその中に飲み込んで、全くの非現実世界を創出してしまうからです。カントによれば、私たちは「理論理性」によって「理念」「理想」を追い求めますが、「理論理性による推理」=「お花畑」論は矛楯に陥り必然的に混乱をもたらすとして、「理論理性の限界」を説きました。「神の存在」「魂の不滅」人権論者が唱える「自由」は、要請されるが論証不可能として、このようなテーマは「実践理性(意志・感情経験)」に委ねるべきであると主張しました。

 

理性(論理理性)は地を離れて空を「自由」に飛び回り、山を俯瞰し、山を把握しようとします。一方、実践・経験(意志や感情)は決して地を離れることなく、山の中に居て山を把握しようとします。前者は「傍観」の立場であり、後者は「自観」の立場です。カントは、真の「倫理」は実践の立場、「自観」の立場においてはじめて成り立つと説いているのです。

 

仏陀は蓮華を座にしています。蓮華(蓮の花)は泥沼にしか咲かない花です。ドロドロとした人間の情念(実践・経験)あってこそ絶美の「善の花」が咲き出でるということを静かに訴えかけているのです。松本清張推理小説の巨匠ですが、その作品は単なる「犯罪推理小説」の域を超えています。人間の真実は犯罪事件という非日常において露わになります。殺人・傷害・強盗・誘拐・脅迫・詐欺・恐喝・暴行・強姦・ストーカー等の刑事事件には、負の動機(憎悪、恨み、復讐、絶望、性欲、etc.)すなわち「泥沼」と正の動機(慈悲=正義、犠牲、約束、同情、etc.)すなわち「蓮華」の種子が混在しています。例えば、夫が、不治の癌で苦痛にのたうち回る妻を、延命治療を選ばず殺人に及ぶとき、夫は自らが殺人罪に問われることを認識していながら自らを犠牲にして殺人という罪を犯すのです。そこには、確かに、「悲しい慈しみ」=「慈悲」=「蓮華」が在ります。松本清張はその「蓮華」を描きたかったに相違ありません。

 

「人権活動」は須く「慈悲」による「慈善活動」であるべきで、間違っても「政治活動」であってはならないのです。「政治活動」としての「人権活動」は偽善に過ぎません。人権活動家には「自由には責任」「権利には義務」という「単純な常識」を踏まえてもらいたいものです。(つづく)