悟りの証明

残日録

理性の害悪(3)

理性の害悪を知るにはヨーロッパの理性(哲学・思想)の歴史とその理性による惨劇を明らかにしなければなりません。ヨーロッパの理性主義・主知主義の源流を辿れば、古代哲学の完成者といわれるギリシアのアリストテレスに行き着きます。アリストテレスは私たち人間の営為を、観照(テオリア)・実践(プラクシス)・制作(ポイエシス)に分け、それぞれ理論学(形而上学)・実践学(政治学・倫理学)・制作技術(アート)という学問分野を設定しました。そしてアリストテレスは観照・理論学すなわち理性を優位に置き、ヨーロッパを理性主義へと方向づけました(因みに日本は古来一貫して実践主義=「言挙げせぬ」「不立文字」)。しかし、ヨーロッパ中世における理性はキリスト教の神の存在証明に利用され、「スコラ哲学」を支えましたが、理性が表舞台に出ることはありませんでした。中世の終わりは、まさに「理性の復権」を意味しており、それはデカルトによってもたらされました。デカルトはまさに理性至上の「大陸合理論」(大陸=イギリスを除いたフランス、ドイツ、イタリア、その他)の元祖的存在でした。デカルトの主著『哲学原理』には次のような一文があります。

 

「自然の光、すなわち神から私たちに賦与された認識能力の捉える対象は、それが自然の光によって捉えられるかぎり、換言すれば、明晰判明に知覚するかぎり、ことごとく真である。」

 

この一文は、まさに神になりかわった人間、神の座に就いた人間を意味しており、神=「自然の光」=認識能力=理性という、人間の理性の絶対視を意味しています。これは「天賦人権説」そのものであり、後の「自然権」へと展開して行くことになります。

 

18世紀になると、人類の未来に決定的な悲劇をもたらす三人の哲学者、ルソー、ヘーゲルマルクスが登場します。

 

ルソーは、ヨーロッパの激動期を生き、フランス革命の思想に多大な影響を与えた哲学者でした。ルソーは「社会契約」の必要性を説き、その内容は「一般意志」という理念によって貫かれています。「一般意志」とは、私たちの内にある「公共の意志」を意味し、「利己の意志」である「特殊意志」の対立概念です。ルソーの社会契約説の骨子は、「一般意志としての個人」が、「一般意志としての公共の意志」と契約を結ぶことによって、社会(国家)の繁栄と秩序を確立すると共に、個人としての自由や権利を確保しようとするものです。しかし、よく考えてみると、「個人の一般意志」=「公共の一般意志」という「等式」は唯一ではなく複数あるということです。どのような社会(国家)にも保守と革新、右派と左派があり、現実には最低二つの一般意志があり、二つの等式があるということになります。従って、ここで、「理想的な」一つの等式を選ぶか、「現実的な」複数の等式を選ぶか、選択の問題が出て来ます。理性は常に理想を求めるものです、従って当然、唯一の等式を選ぶことになります。しかし、そこには重大な落とし穴が待ち受けています。それは「全体主義」という陥穽です。まさに、これこそ「理性の害悪」なのです。

 

ロベスピエールは、ルソーの思想を現実に落とし込もうとした政治家で、唯一の「個人の一般意志」=「公共の一般意志」という等式、すなわち「一般意志の一元化」によって理想的な社会(国家)=全体主義社会(国家)を目指しましたが、その具体的手法は、啓蒙と洗脳による「人間改造」と人間改造が不可能な場合には「粛正」でした。ロベスピエールは1794年に行った演説において、次のように言っています。

 

「人民政府の活力は、徳性と恐怖の双方である。徳性なくして恐怖は有害であり、恐怖なくして徳性は無力である」

 

因みに、ここで言っている「徳性」とは、革命政府が掲げる「一般意志」を理解し、それを自らの「一般意志」として、行動を共にすることであり、「恐怖」とはギロチンによる公開処刑を意味しています。ギロチンや絞首刑といった正式の処刑とそれ以外の処刑(私刑)による犠牲者は合計4万人以上と言われています。(つづく)