悟りの証明

残日録

理性の害悪(1)

「理性的でなければならない、感情的であってはならない」というのが私たちの常識になっています。しかしこの常識こそ私たち人間を滅亡へとミスリードする落とし穴となります。

 

毛沢東 7,800万人、スターリン 2,300万人、ヒトラー 1,700万人、ポル・ポト 170万人。彼らは理性的な人間であり、理性に徹したからこそ、冷徹にこれだけの大量虐殺をやってのけたのです。動物には理性はありません、従って、飢えを充たしたら、それ以上、他の動物を殺すことはありません。戦争による殺し合いは理性によって起こされるものです、動物にも縄張り争いはありますが、殺し合いに至ることは殆どありません。

 

人間の人間たる所以はまさにこの理性(言語・概念による論理的思考=理論理性)にありますが、私たちは理性の危険性を知り、限界を知り、理性を制御する術を知る必要があります。

 

仏教は慈悲(≧愛)という情・意(感情と意志=感情を伴った行為)を以て理性を制御することを説きます。しかし、ここで矛楯が生じてきます。それは、愛を「説く」と言うことは愛を「理性を以て」説く、愛を「理性に依って」説くと言うことであり、説かれたものは理性であって愛という情意ではないということになり、本末転倒と言うことになってしまいます。そこで仏教は「四十九年一字不説」(釈尊は悟りを得て入滅するまでの49年間、一言も説くことはなかった)と言って、自らこの矛楯を指摘し、言語による理性以外の方法によって説くことに注力します。

 

禅宗は「不立文字・教化別伝・直指人心・見性成仏」すなわち「言語に依らず、論理的な教えとは別に、人の心に直接訴えて、見性(悟り)に導く」、浄土真宗も「理性に依らず「信」(信じること)によって理性に頼らず、直接に愛と合一させしめる、ということを宗旨としています。

 

親鸞の『悪人正機説』すなわち〈善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや〉は、私たちの論理的思考を拒絶して、「信」によって一気に愛と合一することを要求しているのです。

 

同様に、禅の公案(問答)『一口吸尽西江水』は、仏とは・悟りとはという問に対して<汝が一口に西江の水を吸尽するを待ちて、即ち汝に向かいて言わん>(お前が大海の水を一口に飲み干してきたら教えてやろう)と答えることによて、「無分別」(非論理)と言うものを「飲み干すことができたならば」、無分別ということが「腑に落ちたならば」教えてやろうと説いています。物事の真の理解は、頭による論理的思考に依ってではなく、「腹」による全意識(人格=智・情・意)に依って可能となると説いています(智=知的直観)。私たち日本人は、「頭では理解できても、いまいち腑に落ちない」という「理解の本質」を知っている希有の民族と言うことが出来ます。日本人の多くは「私は無宗教」と自認していますが、「腑に落ちない」という微妙な意識を持っていると言うことは、立派な仏教徒であると言うことが出来ます。宗教は意識されている時は未だ宗教とは言えず、「無意識に意識される」ようになって始めて宗教が浸透しているということになります。

 

キリスト教の第一義は愛(アガペ)ですが、仏教の第一義は「智慧」で愛(慈悲)は第二義になります。仏教では智慧から愛(慈悲)が流出するのです。智慧とは悟りによって得られる無分別知であり、知るものと知られるものとが自己同一の知的直観(西田幾多郎)を意味しています。仏教は四大宗教の中で最も知的な宗教であると言われる理由はここにあります、仏教は単なる宗教ではなく「宗教哲学」なのです。

 

仏教は理性(分別知)に代わって、理性よりも高次の知である「般若」「無分別智」「知的直観」によって愛を説く宗教なのです。

 

「知的直観」について、西田幾多郎は次のように説明しています。

 

「知的直観とは知覚と同じく意識の最も統一した状態である、純粋経験(三昧)における統一作用そのものである、生命の捕捉である、すなわち技術の骨のようなものである。知的直観は主客合一、知意融合の状態である、物我相忘れ、ものが我を動かすのでもなく、我がものをうごかすのでもない、ただ一の世界である。(中略)宗教的覚悟(悟り)とは思惟(理性)に基づいた抽象的知識でもなく、また単に盲目的感情でもない、知識および意志の根底に横たわる深遠な統一を自得するのである、すなわち一種の知的直観である。」(善の研究・第一編・第四章・知的直観)(括弧内は筆者加筆)

 

西田哲学とは知的直観(悟り)を原理とした宗教哲学なのです。従って、西田哲学を理解するには悟り(覚悟・自覚)という体験が必要となります。西田は自らの哲学が理解されないことについて、次のように愚痴をこぼしています。

 

「抽象的論理の立場からは、具体的なるものは考えられないのである。しかし私の論理と言うのは学会からは理解せられない、否未だに一顧も与えられないと言ってよいのである。」(『私の論理について(絶筆)』西田幾多郎全集第十二巻 P265

 

理性の危険性を知る仏教は、理性に代えて知的直観(般若)をもって慈悲(≧愛)を説き、人格の根柢に愛を据えて、倫理を説いているのです(悟りの証明58参照)。