悟りの証明

残日録

悟りの証明(57)

「なぜ人を殺してはいけないの?」

この問いは、1997年8月15日、 故筑紫哲也がキャスターを務めたテレビ番組『ニュース23』が企画・放映した「ぼくたちの戦争’97」という特集コーナーで、高校生たちが大人たちと討論する中、ある高校生がこの問いを投げかけ、さらに「自分は死刑になりたくないからという理由しか思い当たらない」のですが、と続けています。この生徒は大人からの本当の答えがほしかったのです、大人達に救いを求めていたのです。

しかし、キャスターの筑紫哲也はもとより、ゲストとして同席していた大江健三郎、その他の所謂知識人達も、誰一人、答えることができなかったのです。

同年、朝日新聞大江健三郎の「誇り、ユーモア、想像力」と題されたコメントが掲載されました。(朝日新聞 1997.11.30 朝刊)

「テレビの討論番組で、どうして人を殺してはいけないのかと若者が問いかけ、同席した知識人たちは直接、問いには答えなかった。(中略)私はむしろ、この質問に問題があると思う。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。そこにいた誰も、右往左往するばかりで、まともに答えられなかったのだ。あれだけの知識人がそろっているのに、子供の質問にすらまともに答えられないのかと、世間は嘲笑した。そのようにいう根拠を示せといわれるなら、私は戦時の幼少年時についての記憶や、知的な障害児と健
常な子どもを育てた家庭での観察にたって知っていると答えたいなぜなら、性格の良し悪しとか、頭の鋭さとかは無関係に、子どもは幼いなりに固有の誇りを持っているから。。(中略)人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観にさからう無意味な行為で、誇りのある人間のすることじゃないと子どもは思っているだろう。こういう言葉こそ使わないにしても。そして人生の月日をかさねることは、最初の直観を経験によって充実させてゆくことだったと、大人ならばしみじみと思い当たる日があるものだ。」

これは、無慈悲に生徒をなじいるだけではなく、知識人としてはあるまじき「直観」を持ち出してくるとは、全く、人間失格であり、知識人失格と断罪ぜざるを得ません。

「なぜ人を殺してはいけないの?」という問を出した生徒は、一体、何を問うていたのでしょうか。この生徒がコトバに表せない本当の問は何だったのでしょうか。
この生徒は「自分は死刑になりたくないからという理由しか思い当たらない」ということを知っているのです。つまり、私たち「人間社会の秩序を維持」するために、「殺してはいけない」ということぐらいのことは知っていると主張した上で、この生徒は、人間の尊厳を賭けて、実存を賭けて、自分自身で「殺してはいけない」本源的な理由を知りたかったのです。言い換えれば、「主体なき理性」で単に知識として知るだけではなく、「主体ある理性」すなわち意志と感情を伴った全人格を賭して知りたかったのです。

この生徒の切なる問いに答えるには、「一体、私たちに自由はあるのか?」という根本的な問いに答えなければなりません。自由がないところに倫理は成立しません、自然必然の法則に従って生きるだけなら、善悪を問うことはできません。この自然のルール(自然の摂理)に加えて、社会のルール、人間のルールに従うこということになれば、そこには私たちの自由は全くありません。

仏教は「人間の自由」について、既に2500年前に単純明確に答えを出しています。

「私たちの自由とは、自然必然の法則を無視して勝手に生きることではない、生きられるはずもない、むしろ、自然必然の法則に則り、自らのものとして、積極的に自然必然を活用する、すなわち<使然>の立場に立てば自由である。」

「また、社会からの自由を求めるならば、<人知>を客観視し、<人知の専横>を許さないことである。知は真偽、情は美醜、意は善悪というそれぞれの領分かある。<人知>は分別知であり、相対知であり、<関係知>である。関係の中に住む以上自由はない。」

「善悪は<人知>の産物である。善も悪もない世界、それが三昧の世界である。三昧には<自然の知=無知の知>と意志と感情とがある。三昧とはただ物事に<感情移入>し、物事と一つになることである、物事と一致するとき、そこに「慈悲>愛」が現成する。慈悲あるところに悪がある筈がない。善悪に苦しむより、三昧を楽しむことである。」

現代の最大の問題は<知の情意に対する越権><主体なき理性の専横><知の全体主義>なのです。大江健三郎その他の所謂知識人の存在そのものが悪なのです。若者達はこの<知の全体主義>の中で圧死寸前なのです。若者達をこの息苦しい(生き苦しい)世界から救出するには、単純に<感情移入>の骨を伝授することです。<感情移入>とは決して知識ではなく、行為であり、行動であり、体験なのです。<感情移入>のあるところには決して悪はありません、倫理判断に迷うこともありません。若者をして、何事にも<感情移入>ができる自分に、自分自身が仕立て上げられるうように、私たちは大人は、無言で寄り添いながら、機会を与えればいいのです。(つづく)