悟りの証明

残日録

悟りの証明(56)

安全保障、集団的自衛権憲法改正、沖縄米軍基地、尖閣諸島南シナ海イスラム国、米大統領選、北朝鮮慰安婦原発TPP八重洲移転、オリンピック、その他諸々の事件・事故、これら一切の問題(イシュー)は最終的に「人格問題」「倫理問題」「善か悪か」という問題に帰着します。私たちは、これら諸問題解決のために、誰しもが「感情的」であってはならない「理性的」に対処しなければならないと固く信じています。しかし、真の問題はこの常識的な「理性崇拝」にあります。私たちが理性を崇拝するとき、理性を越えてもう一歩先に進むという努力を怠ってしまうのです、つまり「理性オタク」に陥ってしまうのです。このブログで批判してきた吉本隆明大江健三郎は「理性オタク」の教祖的存在なのです。私たちが「人格」を考える時、彼らはまさに「反面教師」なのです。

 

私たちは皆程度の差こそあれ「理性オタク」であることに違いはありません。私たちは、鳥のように地を離れ空を舞って、山を俯瞰するように世界を見ているのです。私たちはこちら側にいて、あちら側に世界を見ているのです、つまり「傍観」しているのです。このような「理性的な私」「考える私」では決してリアルの世界、現実の世界を知ることは出来ません。私たちはリアルな世界に包まれているのです、私たちは現実の世界の中に生まれ・ハタラキ・死んでいくのです。「私が走っているる」と考えることと「実際に私が走っている」こととは違います、私が実際に走れば、地を蹴る時に地からの反作用があり、風を切る時に空気の抵抗があり、息が弾むのです。私の作用に対して必ず反作用というものがあります、これが現実の世界です。

 

そこで、どうしたら単なる「理性オタク」から脱することが出来るか、脱して何処へ行くのかということが問題になってきますが、それは、吉本や大江の対極にある三島由紀夫の次の一文を見れば明らかになってきます。

 

「文化は、ぎりぎりの形態に於いては、創造し保持し破壊するブラフマン・ヴイシュヌ・シヴァのヒンズー三神の三位一体のような主体性においてのみ発現するものである。これについて、かって戦時中、丹羽文雄氏の『海戦』を批評して、海戦の最中これを記録するためにメモをとりつづけるよりも、むしろ弾丸運びを手伝ったほうが真の文学者の取るべき態度だと言った蓮田義明氏の一見矯激な考えには、深く再考すべきものが含まれている。それが証拠に、戦後ただちに海軍の暴露的小説『篠竹』を書いた丹羽氏は当時の氏の本質は精巧なカメラであって、主体なき客観性に依拠していたことを自ら証明したからである。」 (『文化防衛論』P47)(下線は筆者)

 

「メモをとる」「精巧なカメラ」とは理性を意味し、しかもこの理性は「主体なき理性」として否定的に見られているのに対し、「弾丸運びをする」とは「行動」を意味し、肯定的に表現されていることが分かります。要は、物事(世界)を外側から見るのでは物事の真相(リアリティ)は掴めない、内側から見なくてはならない、内側から見るには行動する以外にはないと言っているのです。

 

私たちが人格的であるためには、単なる「考える私」から「行動する私」へ、まさにこのことが私たちに問われているのです。「主体ある理性」すなわち知・情・意三位一体となった人格は「行動する私」に於いてはじめて発現します。

 

神道では「言挙げせぬ」、仏教では「不立文字」と言い、言語(ことば)を使ってものを考えることを否定して来ました、つまり理性を否定して来ました。これが日本の伝統でした、寡黙が美徳でした。(つづく)