悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(55)

西田幾多郎仏教の「即非の論理」に基づいて「絶対矛盾的自己同一の論理」を「西洋の倫理」とは全く別の日本独自の論理として確立しようとしました。しかし、西田は『絶筆』において次のように述べています。

 

「抽象的論理の立場からは、具体的なるものは考えられないのである。しかし私の論理と言うのは学会からは理解せられない、否未だに一顧も与えられないと言ってよいのである。」『私の論理について(絶筆)』(西田幾多郎全集第十二巻 P265)

 

西田哲学を理解するにはその原理である「自覚=悟り」を理解しなければなりませんが、その「自覚」を理解することで、どのような御利益があるかと言えば、単純に、私たち人間にいとって最も重要なものが「愛(慈悲)」であると言うことがわかり、更に、その愛が私たちの人格を形成しているということがわかって来ます。私たちの人生の意義は愛を以てこの世界に接すること以外にないということが分かります。

仏教の使命は「抜苦・与楽」ですが、苦を取り除くのも愛、楽を与えるのも愛ということになります。

 

先にも触れましたが、「なぜ人を殺してはいけないの?」という私たち人間の根源的な問に対して、仏教は単純明快に「それは人格に悖る(反する)からである」と答え、加えて「愛がないからだ」と答えます。私たちは法律に背くが故に罰を受けるのではありません、人格に背くが故に罰を受けるのです。罪人は例え法の目をくぐりおおせたにせよ、自らの罪の意識から逃げることはできません。

 

私たちの日常は、深く考えることはなくても、常に、これはやるべきである、あれはやるべきでない、と一々判断しながら行動しているはずです。もし、その判断に迷うことがあれば、そこに「愛」があるかどうかを自問すれば、判断を誤ることはありません。

 

私たちが人と会って話をしている時、当然、話を理解し合い、心を通わせているのですが、それとは別に、無意識のうちに、話し相手の「人格」を見ている筈です。勿論話の中にも人格は窺えますが、話以外に、顔の表情、服装、身振り手振り、グルーミングの状態、その人の全体としての雰囲気等を一瞬のうちに見て取っている筈です。

 

私たちの日常は情報で溢れています。私たちの関心は事件・事故の原因です。事件・事故は人が起こすものなので、結局、事件・事故を起こした人間の人格に関心があると言うことになります。

 

私たち人間にとって最も関心があるものは何かといえば、それは他の人すなわち他人なのです。何故他人なのか。それは「他人を在らしめることによって、はじめて自分を在らしめることが出来る」からです。「他人を在らしめる」「他人を知る」ためには主観(自分)を取り除き、客観(他人)に徹しなければなりなせん。自分を取り除くとは無我になると言うことです。無我になるとは私というものがなくなって、「在らしめようとするハタラキだけになる」「知ろうとするハタラキだけになる」と言うことです、誰のハタラキでもない、ただハタラキだけになるのです。そして、その「ただハタラクだけ」こそが真の我(私)であるということが分かることが、とりもなおさず「自覚」すなわち「悟り」なのです。我が知るのではない、我が在らしめるのではない、知るというハタラキ、在らしめるというハタラキが我なのです。悟りの証明(32)で述べたように、「円朝がハイハイではなく、ハイハイが円朝」なのです。私というものが存在して、その私が知ったり行動したりするのではないのです。そのような超越的な私は存在しないのです。私たちが常日頃私と思っている私は幻想にすぎないのです。私とは「自己幻想」なのです。因みに、吉本隆明は「国家共同幻想」を語りましたが、それ以前に「自己幻想」があるのです。「自己幻想」を前提として「国家共同幻想」を語っても屋上屋となるだけで、全く意味のないことです。「私」という「自己幻想」をもって生きている人の世を仏教では「浮世」と言います。

 

「無我になる」には余程の修行がいると思われるかも知れませんが、実際は、日常生活に於いて無我で過ごす時間の方が長いのです、「三昧でいる時間」の方が長いのです。無我に於いて、忘我において行動している時間の方が長いのです。三昧でいる時は自ずと「感情移入」「人格移入」がハタライテいます、道元禅師の表現を借りれば自ずと「心身を挙して」という状態になります。

 

無我に於いて他我を在らしめようとすること、無我に於いて他我を知ろうとすることは、他我と一致しようとする努力です、他我と一致しようとする努力が「愛」と言うことに他なりません。

 

(私たちが)この世に愛をもって接する時、この世は一変します、すなわち「浄土」になるのです。仏教で言う「浄土」は決してあの世ではないのです、死後の世界ではないのです。人間に対してだけではなく、一木一草に至るまで、愛をもって接する時、この世は愛をもって応えてくれます。この世は客観的に存在するのではありません。この世とは「自己の反映」なのです。(つづく)