読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

悟りの証明

仏教の一隻眼

悟りの証明(53)

常朝の<死の作法化><死の型化>はともかくとして、私たちが日々の生活を「作法化」し、<生活の型>をつくることは難しいことではありません。毎日何気なく習慣になっている行動を反省し、安全・安心・快適な生活という目的を設定して、その生活シーン毎に、理にかなった行動(失敗がなく、無駄がなく、手早く、確実に、目的を達成できる行動)に置き換えていくのです。例えば、起床シーンでは、部屋の空気が淀んだままにしないように窓の両端を開けて風通しを良くし、深呼吸をし、晴天であれば寝具を天日に干し、雨天であれば敷き布団はそのままにして、掛け布団は足下にたたんで置き、敷き布団からの湿気を発散させ、シーツは洗濯機に入れる。洗面シーンでは歯磨きを先、洗顔を後にし、歯磨きは上の歯から下の歯へ、というように一々の行動を、失敗なく、無駄がなく、手早く、確実に目的を達成できる行動に置き換えていきます。その行動が最も合理的な行動であると確信したら、その行動が無意識の行動(無作の作)になるまで繰り返して、習慣化し、<型化>出来たら、それが<自らの作法>となります。

 

私たちが目的を達成する行動に専念するとき、多くの場合、道具を必要とします。道具は私たちの行動を確実にするもので、手足の延長とも考えられます。ある特定の行動にはある特定の道具が必要です。例えば、歯磨きの後に口内を洗浄するために水を入れる器が必要ですが、柄のある器よりも柄のない器(コップ)が適しています。柄のある器は柄の向きを探して握らなければ成りませんが、柄のないコップは直ぐに掴むことが出来ますし場所もとりません。包丁は切る対象により、切り方によってその形状が変わってきます。このように行動を決めるということは道具を決めるということに繋がります。従って、日常の<作法化>には、インテリア、家具、道具の選定が不可欠になります。さらにこれらの道具は所定の位置(使い勝手の良い位置)に整然と配置する必要があります。

 

僧侶の仏道修行といっても、何も特別なことをやっているのではありません。上記のように、日々の行住坐臥を<作法化>して、無我の行動、無意識の行動、無作の作とすることで、我を滅した「実践」に没入し、仏を実現しているのです。仏とは<存在>ではなく法則としての行為>であり<当為>なのです。尤も、今の僧侶にそのような認識があるかどうか疑問ですが。(つづく)