悟りの証明

残日録

悟りの証明(51)

「型」とは、ある目的を達成するための「行動の法則」「作の法」つまり「作法」であり、人間の行動でありながら人間の行動を超えた「自然のハタラキ」「自然の行動」、自然にして人為であるところから「自然即人為」「無作即作」「無作の作」ということになります。

 

茶道を例に挙げると、茶道にも「型」があります。茶は、本来、禅僧の飲料として栄西禅師によって輸入され、広く喫茶の習慣が根付きました。日常生活を「作法化」することによって「行」とする(例えば『永平清規』)という動きのなかで喫茶も「作法化」されていきました。やがて、この喫茶の作法は東山時代の一休宗純を師とした村田珠光、桃山時代の紹鷗を経て、利休によって大成されました。茶会(客を招いて茶を供する集会)の目的は、しばらくこの俗世から離れて「仏の一期一会」を体験することにあります。茶を点てて飲むというただそれだけの行動は、師匠の「型」を範として反復行動することによって何時しか我が抜け落ち「骨」を得て、作為の行動から自然の行動へと移り、無意識の行動、無我の行為、仏の行為となります。

 

作法に則った行動はただ目的を確実に達成するという意義だけではなく、「なすべき行為」すなわち「当為」となり「倫理」となっていきます。そして更に、作法に則った行動は、わざとらしさがなく、自然であり、誰が見ても美であるところから「芸術」へと発展していきます。三島の「日本文化は、行動様式自体を芸術作品化する特殊な伝統を持っている」ということになります。

 

利休は、茶道の奥義は何かと問われて、言下に「ただ茶を飲むだけである」と答えたと言われています。茶を飲むという行動が作法となるとき、我は抜け落ち無我の行動となり、自動的(オートマテック)な行動となり、三昧の境に入ります。「三昧境」では「行動することが知ること」であるという「行即知・知即行」が現成します。三昧境には「一次的意識のハタラキ」だけがあり、「二次的意識(人間意識)」の介入はありません。

 

皇国派であった三島由紀夫は「型」について、儒教から生まれた朱子学の「先知後行」を排して、朱子学から派生した「陽明学」の「知行合一説」に依って説明しょうとしましたが、これには少々無理があります。「武士道とは死ぬこととみつけたり」と言う至言で有名な山本常朝は、当時、主流となっていた儒教的(陽明学的)武士道を「上方のつけあがりたる武士道」として厳しく批判し、「行動しているときには死ぐるい(無我夢中)」、つまり「三昧の行動」でなければならないと主張しました。

 

「武士道とは死ぬこととみつけたり」という至言の真意は、行動の目的を「死ぬこと」に設定することで、常朝は自らの人生そのものを「作法化」したのです。茶会の作法はせいぜい数時間ですが、常長の作法は一生なのです。死ぬという目的を設定するということは、単に行動の終わりを設定するということではなく、その設定の瞬間から死への行動が始まるということを意味しています。終わりは始まりであり、始まりは終わりであるという「円環」となるのです。斯くして、死ぬ準備は常に整っていることになり、時と場所を得たら、決して「後れをとらない」覚悟をもって生きることになります。常朝は赤穂事件についても辛辣な批判をしています。その批判の内容は、赤穂藩士たちは何故、内匠頭の切腹直後に上野介を討たなかったのか、上野介が病死したらどうする。藩士たちは何故、上野介を討った直後に切腹しなかったのか、何を待っていたのか、待つは未練ではないのか。いずれにせよ藩士たちは「後れをとった」のだ、というものです。  

 

常朝は、結局、主君の厳命で「追い腹」を許されず、隠居の身となり、次の絶美の一句を残して一生を終えます。

 

「浮き世から何里あろうか山桜」

 

日本の文化は、三島が指摘しているように、行動から、なすべき行為としての当為となり、当為は倫理に発展し、倫理は美(芸術)となる、というところにその特色があります。自然の法は人間に降臨して「作法」となり「型」を生みます。そして、この「作法」は「型」を通して「慣習法」となり、日本人の無意識の行動様式として伝承されていきます。(つづく)